留年百合小説アンソロジー:ダブリナーズ - ストレンジ・フィクションズ

告知だ!

ストフィク増刊留年百合アンソロジーにお話を載せてもらいました。今週末(5月19日)に迫った文学フリマ東京38【き-55】またはBoothでの通販にて(といっても通販のほうは第一次予約分が完売しているのですが)。幌田先生による装画もいいし以下で試し読みもできる。

note.com

以下、収録作についてネタバレしない(と思われる)範囲で書きますが、自分がへたくそでちょっと抽象的になりすぎてる気がするな。どれもおもろいで!

全然そうは見えません

すぐにピンとくるかもしれないし、そうでなくとも立ち止まって考えてみればわかるとおり、不穏なタイトルではある。けれど、そういったネガティブさをかならずしも転倒させるのではない形で取り扱い、未来につなげていこうとするお話だったんじゃないでしょうか。よくこれを最初に持ってきたなという気もするけれど、「留年」という語とその状況にだって(同じではないにせよ)通じるものがあるのかもしれない。

海へ棄てに

どうしたって退廃へのあこがれというものがつきまとうし、それはそれとしてライフゴーズオンするし、もちろん固有名詞だって頻出する、かなり直球の文化系サークルもの。そういうそれぞれにたいして、突き放しすぎずくっつきすぎず、距離感をどうつくっていくかというお話……といってもよいのでしょうか。そんなとき、どうしたって出たとこ勝負がつきまとうよねと思うし、だからこそ長期戦の構えは強いよなとも思う。自分はどうだったっけかな。

still

書くこと描くことにかぎらず、なんだって重ねてゆけるものではある。留年も同じである! ……とか言ってみられるか。いやこれは真面目に言っている。そしてそれだけじゃなく、線と線のあいだの、かたまりとかたまりのあいだの、あるいは周囲の余白にも、ときどき目を向けてみるのもありなのかもしれない(というか、それらは不可分なものなのですし)。

切断された言葉

ほとんど過不足なく怖いんよ。怖さに遊びがないんよ。遊びというか、p.85のあたりでちょっと遠ざかるあたりとかは遊びといえば遊びなんだけどそれが嫌な感じを増幅させてるんよ。p.85とか言われてもあれだと思うので、そのあたりは各自確かめてみてください。あるいは別の印象もあるかもしれないので聞かせてください。

ウニは育つのに五年かかる

ある種のエキセントリックさでしかお話のなかにつなぎとめられないことがらというのはやっぱりあるものだし、そこに(隠すように?)添えてはじめて収まることがらだってあるものだと思う。そういうことがらがあったのではないでしょうか。アクセル踏みしめハンドル回しっぱの遠心力がずっとかかっているようで、けれど単調ではない。おかげで読後感がいっとう切ない。

不可侵条約

おれのや。モーダスポネンスの成り立たなさを陽に扱って展開させられないかが去年のざっくりしたテーマで、けれど自分にはうまく書けないということがわかったので、ちょっと違う感じで今年になってようやく書けました。ありがとうございます。

パンケーキの重ね方。

恋愛のどうしようもねえところを、美化するわけでもなく露悪するわけでもないかたちであらわすにはどうすればよいのか。いろいろあるのでしょうが、ここでは、合理的に考えればそうはせんやろというおこないを、しかしその実現のためにロジックを練ってまで周到におこなってしまう、というかたちであらわされているのではないでしょうか。結果として、そうはなってしまう。

春にはぐれる

あるポイント以降、あらゆるシーンの台詞と行動がすべて妥当で、そのうえにエモいのだが、はじめから掛け違えすぎているような気がする。そういういびつさに駆動された圧迫がある。そのいみで「パンケーキの重ね方。」とは対照的かもしれず、つまり、世界のなかのわれわれという状況のうちのどこに信をおくかという話なのかもしれない。


以上です。

ジョイス『ダブリナーズ』(柳瀬訳)で好きなのは「土くれ」です。みなさんもこっちのダブリナーズとあっちのダブリナーズでそれぞれなにが好きか教えてください。よろしくお願いいたします。

Re: ゲームの「不便さが楽しい」を考える

以下の記事がおもしろかったので、乗っかって考えようとおもいました。「便利状態」との比較で「不便」が出てくるってアイデアはたしかにすぎるんだよな。 ゲームの「不便さが楽しい」を考える - ビデオゲームとイリンクスのほとり

読みましたか? 読んだね? というわけで、「インベントリの重量制限」「ファストトラベルポイントやセーブポイントの制限」「武器や防具に耐久値があること」といった、同記事で想定されているような「不便さ」とその肯定/否定について次のように考えられるのではないか。

  • ここに「A: 対象となるゲーム」があるとする。そして、「B: Aの個別のゲームメカニクス1をなんらかの形で変更したゲーム」を想定する。このとき、AとBを比較してゲーム内の目標に対する手段の非効率性が生じたなら、その非効率性(ないし、それを生じさせている当の個別のメカニクス)を〈不便さ〉と呼ぼう2/3
    • このいみでの〈不便さ〉は現実のゲームメカニクスの問題に尽きる。あくまで本物の「不便」であるため、悲劇のパラドクスなどで問題になる不快(のようなもの)とは異なる4
    • このいみでの〈不便さ〉はゲームメカニクス(のようなもの)をもつ媒体、つまりゲームやスポーツでのみ生じる5/6
    • このいみでの〈不便さ〉は後述するとおりゲームというものの特性上ほとんど常に発生し(ひねり出せて)価値中立なものだが、同記事にもあるとおり、それが具体的なイメージ(「便利状態」)をともなって想像しやすいときに「〈不便さ〉という状態にもとづく不快な感情」として意識される可能性が高まる
  • ゲームの話で「非効率性」といえば、スーツ『キリギリスの哲学』における「ゲームをプレイすることは、ルールが認める手段(ゲーム内部的手段)だけを使って、ある特定の事態(前提的目標)をもたらすことを達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す(構成的ルール)。そして、そうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による(ゲーム内部的態度)」というゲーム(ゲームプレイ)の定義だろう
    • ユールが『ハーフリアル』の第3章あたりで述べているとおり、ルールをたんなる制限ととらえて「手段の非効率性」に注目しすぎるのは(とくにビデオゲームにおいて)うまくいかない考え方だと自分もおもう
    • 目下の話題でいえば、比較対象が前提的目標に対する制約のない状態ではなく「一部分を変更しただけの別のゲームメカニクス」であるため、そもそもの建て付けも違っている
    • ただそれでも、「なにができるか、できないか」というのはほとんど常にゲームというものにつきまとうとはいえるし7、ゲームをおもしろくしている要素のなかにそうした〈不便さ〉があることは明らかなようにおもわれる
    • もとの記事における「極端な肯定言説」にあるような「押したら全クリになるゲーム」は、〈不便さ〉をひねり出し取り除く操作(「便利化」とでも呼ぼうか)を繰り返していった先の極限として考えられることからして、極端とはいえ地続きであるとはいえる
  • では、(それ自体が負の価値をもつものではないから「擁護」もなにもないとはいえ)この立場から〈不便さ〉を肯定/否定するとすればどうなるか
    • まず、もとの記事における「転倒説」のようなものをゲームメカニクスのおもしろさの枠内に閉じた形で適用するのはとくに問題ない……というか「転倒」でさえなく、別のゲームメカニクスと比べておもしろい/おもしろくないという話でしかない。手段が制約されるなどしたところで、ゲームというのはそもそもそういうものだ
      • 「インベントリの重量制限」だってそれ自体でリソース配分を考えるミニマムな「ゲーム」として考えられる。問題はそれがおもしろくない(かもしれない)ことに尽きる。逆におもしろくした例(?)として『Backpack Hero』のような作品さえある
      • ある程度具体的な「便利状態」を想定したときにはじめて〈不便さ〉にもとづく不快感が意識されるのは、比較対象があってはじめて「この〈不便さ〉のせいで相対的におもしろくない」と感じられるからだろう。〈不便さ〉はあまりにありふれており、直接的に不快さにつながるわけではない。相対的におもしろくないゲームメカニクスのそのおもしろくなさの原因として〈不便さ〉が名指されるという機序になっている
      • とはいえ、この範疇のみに適用できるケースで侃々諤々することはあまりない印象もある。上述のとおり「ゲームとしておもしろいかどうか」の話でしかないため盛り上がらない!
      • あとまあ、ゲームメカニクスのよさにもいろいろあるので、あんまりひとまとめにしてもつまらないというのもある。もとの記事でも言われてるとおり、要はバランスとだけ言っても仕方がない。芸術というものがおおむねそうであるとおり、要素の総和だけではなかなか語れないものではある。ともあれ、ゲームメカニクスとしてひっくるめて見たときには「転倒」だったものが「補償」として捉えられる、みたいなこともありうる
    • 一方で、もとの記事で「転倒説」の一例として挙げられている「あつ森は便利すぎてスローライフって感じがしない」はどうかといえば、これはゲームメカニクスの範疇のみに限られてはおらず、フィクションとしての価値についての主張になっている8。すると、今回の立場からいえば「転倒」にはならず、「補償」に近いものとして捉えたほうが適切ということになりそう(あるいはこちらもやはり、そもそも〈不便さ〉そのものに負の価値を置いていないのだから「補償」ですらないといえるのかもしれない)
      • 不便であることそのものに価値があるという主張にみえるが、その成否にコミットする必要はないし、上述したいみでの〈不便さ〉がないわけでもない。〈不便さ〉は現実にそれとしてあり、それがフィクションとしての価値に資している……という建て付けといえる
      • そのあとに挙げられているGoWの例も同様で、(実現したい必須のコンセプトたる)フィクションとしてのよさのためにあえて〈不便さ〉を付け加えているといえる。作品のアイデンティティにはもちろん必要なのだけれど、かといって〈不便さ〉がないわけではない。〈不便さ〉がそのまま「よくない」ということにならないだけ
      • フィクションとの絡みで〈不便さ〉を付け外しするのは、虚構世界をシミュレートするにあたって「ここに制限を設けても写実性が高まらないから省こう」と考えたせいかもしれないし、そのほうが作品内世界の描写として「自然」だったからかもしれない。認知・操作資源をどう集中さたいかの問題かもしれない9
  • とはいえ、〈不便さ〉を価値中立な語として使うのはあんまり直観的じゃないし、「不便だ」と文句を言いたいときの気持ちや「転倒」を考えることのおもしろさを捉えきれていないような気がする

以上です。


  1. 松永『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」を念頭に置いている。ただし、「個別のゲームメカニクス」といった場合には単数形のゲームメカニクスをいみするものとする。このときの個別化のしかたはケースバイケースだろう。また、非効率性に着目する都合上、ここで変更を想定される当の個別のゲームメカニクスは、対象となるゲーム内の「目標」に付随する「手段の制約」の範疇に属するものに限られる。
  2. 元記事でも触れられているとおり、「面倒」と呼びたいなにかと「不便」と呼びたいなにかはたしかに違う気がする……ということで、ある程度狭くとった形になっている。もうすこし広いいみでの「不親切さ」については、たとえばホデント『はじめて学ぶビデオゲームの心理学』にあるようなユーザビリティの観点などが参考になるかもしれない。同書ではユーザビリティについて「サインとフィードバック」「明確さ」「機能がわかる形態」「一貫性」「負荷の最小化」「エラーの防止と復旧」「柔軟性とアクセシビリティ」をチェックポイントとして挙げているが、目下の〈不便さ〉はこれらとは質の異なる観点からのものだとおもう。
  3. 同記事の「うまく考えられていない点」①『「不便」という言葉が何を表しているか曖昧である』関連。
  4. 同記事の「うまく考えられていない点」②『アートに見られる悲しさや苦痛や恐怖と、本稿での不便という概念とは、「不快なもの」という点で似ているが、少し違うと考えている。しかしその点があまり考えられなかった』関連。
  5. たとえば、小説において「リーダビリティが低い」ようなケースはそもそもここに含まれない。これは先の脚注のユーザビリティの観点に近いとおもわれる。一方、(それを「ゲームメカニクス」と呼べるかどうかは別として)インスタレーションアートなどで似たような話はいえるかもしれない。
  6. 同記事の「うまく考えられていない点」③『他のメディア(アート形式)で、「不便」をどのように考えるか、という点についてもあまり考えられていない』関連。
  7. 先日まとめた右記に関連する:ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen - 青色3号。というかこれに関連するなと思ったからこうやって書いてるところはある。
  8. このあつ森の例でいえば、「ちまちました操作をすること」のような経験のよさも含意されているようにみえるため、純粋にフィクションの範疇で議論が済んでいるわけでもないことに注意。そもそも、意味作用の話だけをしているわけでもないのだから、前述のとおりあえてフィクションのみを特別扱いする必要はないのかもしれない(とはいえ、現実の不便さかどうかというのはやっぱり区別したいのだが)。
  9. こっちは右記のような話を想定している:お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない - 青色3号。もちろんここはメカニクスの範疇のみで完結する(実際に「転倒」である)場合もあるが。

ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen

以前読んでおもしろかったグエンのべつの論文“Games and the Art of Agency”を読んだ1Games: Agency as Artのもとになったもの。以下に内容をメモっておく(いつもどおり内容は保証しない)。

著者のグエンについては、たとえば下記で紹介されている。というかそもそも、この論文の第1節はこの記事の内容とけっこう重なっている(以下のまとめでも参考にしています)。Games: Agency as Art を紹介するような記事がもとになっているから当然だろうか。

ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

で、タイトルどおり本論文のキーワードは‘agency’なんだけど……そもそもこの語がなにをあらわしているのか、正直ちょっとわかりづらい。定訳としては「行為者性」とかになるのだろうが、これもピンとこないところがある。注14にあるとおり、本論文の目的のもとではagencyを厳密に定義する必要はなく、ざっくり“intentional action, or action for a reason”、つまり「意図や理由にもとづく行為」くらいの意味合いに解しておけばよいいらしい。実際に読んでみた感じだと、「したいこと、すべきこと、そしてそれに対してなしうること」みたいな雰囲気のように感じた。……ともあれややこしいので、以下ではひとまず「エージェンシー」とカナ表記することにする。

さて、本論文はおおざっぱに前後半に分けられ、おもな主張は第3節までで済んでいる。後半はその主張の内容をよりくっきりさせるための想定反論と再反論。とくに前半についていえば、要点はおおよそ次のような感じになるのではないだろうか。ちなみに、ここでいう「ゲーム」というのはとくにビデオゲームに限ったものではない。

  • ゲームプレイには(排他的ではない)2つのタイプがある。金銭的な報酬など目標そのものに価値をもとめる「達成プレイ」と、目標のためにがんばる過程(ある種の美的な経験など)に価値を求める「努力プレイ」である
    • これは外在的価値/内在的価値とは直交していることに注意。ちなみに、フィクションの側面がまた別にあることにも触れてはいるが、この論文では扱わないとしている
  • 努力プレイにおいては、ゲームが提示する一時的な目標設定やルール、つまりエージェンシーを真剣に引き受けなければならない。そしてそのうえで、「過程を愉しむ」といったもともとの目的のほうはいったん忘れる必要もある。ここでは、もともとの目的と一時的な目標が階層構造をとっている(し、われわれにはそのような態度をとる能力がある)
    • このへんまではスーツ『キリギリスの哲学』にある定義を大きく引きつつ微修正して掘り下げた感じ。後半の想定反論/再反論はおおむねこの点に対しておこなわれている
  • ゲームはエージェンシーを媒体とする点で特徴的な芸術であり、ゲーム作品はエージェンシーを記録するものだといえる。ゲームデザイナーがやっているのはエージェンシーのための枠組み2のデザインである
    • ここでエージェンシーはあくまで媒体であることに注意。これを「通じて」美的な体験やらなんやらを得る
  • われわれの日常生活におけるエージェンシーの複雑さに対して、ゲーム内のそれは非常に単純化されている。けれど、だからこそ、ふだんわれわれに馴染みのないエージェンシーにも身を委ねようとできるし、それにより日常生活では得られないような美的経験を得られたりもする
    • ここがシカールの「自由」推しに対する反論になっているのがちょっとおもしろい

長いから細かいところはあれだとしても、だいたいそんな感じだったと思う。主張じたいはスーツによるゲームの定義論を、あるいは(引かれているわけではないけれど)ビデ美の第7章の前半あたりをより展開したような雰囲気ではあってものすごく真新しい感じでもないのだけれど、とはいえ事例の出し方がうまくて自分のなかでの整理がちょっと進んだような気がする。

おわりです。


  1. 正確にいえば、読んだのはPhilArchiveや著者のサイトにあるドラフト版。
  2. 『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」とほぼ対応すると思われる。というか、本論文の第2節で扱われている美的な経験云々も同書第7章の美的行為の話とかなり似たことを言っているっぽいし。

2024-04-01

『マンゴー通り、ときどきさよなら』を読んだ。きっかけはこちらで紹介されている(いつも本や漫画の紹介がおもしろそうなんだよな)のを見たからで、前半あたりは「ほーん、移民が集まる街のようすを活写したやつっスね。はいはい」みたいなナメた態度でいたのだけれど、その場所の空気(視覚的イメージではない)がだんだんじぶんのなかにできてきて、ついでにほんのすこし(ほんのすこし!)だけ語り手が成長したのが見えてきてからは、前半も振り返りつつやられてしまったところがあった。サリーの話のくだりとかもうどうしようもないわね。よかった。

なんというか、「居た場所」——というのはいわゆる「自分の居場所」といういみではなく、好きだろうと嫌いだろうと「居た場所」でしかない場所——について、身体をもって知ってしまったからこそできる、してしまう、あたりまえだろうというぶっきらぼうさと、どこまでも細部を思い描けてしまうこととの両立、そういう距離感がよくあらわれていたと感じたからではないか。自分の居場所じゃないなんて思っていようが、よいものとして懐しんでいようが、「居た場所」というのはどうしたってそうなってしまう。そういえばさいきん話題になっていた「創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊」だって、ある面では(ある面でしかないが)そんな話だったんじゃなかろうか。

ひるがえっていえば、他人のそれを(フィクションであろうがなかろうか)読めるというのはおもしろいことであることよなあ。いまさらか。

人類の会話のための哲学 - 朱喜哲

読んだ。

読んだ動機は以下のとおり。

  1. 『プラグマティズムの歩き方』『真理・政治・道徳』といったミサックの本を読んできて1それらにある程度馴染みを感じつつも、とはいえこのプラグマティズム観だけだとちょっとな……とも感じており、その中和剤となることを期待して
  2. 著者がWebで連載していた〈公正〉を乗りこなす2がおもしろく、そのバックグラウンドとなるローティのことをもっと知りたくて

版元のサイトはじめWeb上で目次が見つからなかったため、以下に置いておく。

  • 第1部:ふたつのプラグマティズム:ミサック対ローティ
    • 第1章:ニュープラグマティズムからの異議申立て
      • 1.1:ミサックの「分析プラグマティズム」史観
      • 1.2:プラグマティズムと自然主義
      • 1.3:「特権的なボキャブラリー」をめぐるローティ批判
      • 1.4:「ナルシシズム」をめぐるローティ批判
    • 第2章:「探求」か「会話」か
      • 2.1:「実践」をめぐって
      • 2.2:「真理」と「客観性」をめぐって
      • 2.3:「探求」と「会話」をめぐって
      • 2.4:ふたつのプラグマティズムを調停する
  • 第2部:規範性のプラグマティズム:セラーズからローティへ
    • 第3章:分析哲学の規範的転回
      • 3.1:カルナップにおける「実質推論」
      • 3.2:セラーズにおける「実質推論」
    • 第4章:セラーズの「規範性」概念を再考する
      • 4.1:「ふたつの規範性」の導入
      • 4.2:「ひとつの規範性」とその部分的な形式化可能性
      • 4.3:「規範性」理解におけるカルナップとセラーズの齟齬
      • 4.4:ローティ由来の二元論的セラーズ理解を払拭する
    • 第5章:ローティにおける「理由と因果の二元論」とその克服
      • 5.1:「ふたつの論理空間」を峻別する
      • 5.2:ブランダムにおける「因果性」
      • 5.3:推論主義による因果推論の分析
      • 5.4:分析プラグマティズムによる「理由と因果の二元論」克服
  • 第3部:「文化政治」とプラグマティズム:ローティからブランダムへ
    • 第6章:「奈落の際で踊る哲学」としてのネオプラグマティズム
      • 6.1:反表象主義において何が共有されているか
      • 6.2:ブランダムはどのように「表象」概念を回復するか
      • 6.3:ローティはなぜブランダムによる「回復」を受け入れないか
    • 第7章:「文化政治」としての推論主義(1)ヘイトスピーチを分析する
      • 7.1:推論主義による侮蔑表現の分析
      • 7.2:推論実践と「言語ゲーム」論の導入
      • 7.3:ジェノサイドに至る言語ゲームにおける推論的HS
      • 7.4:明示的差別表現を含まない平叙文をHSとして分析する
    • 第8章:「文化政治」としての推論主義(2)感情教育論を明晰化する
      • 8.1:優生思想と本質主義
      • 8.2:反本質主義としてのプラグマティズム
      • 8.3:推論主義による「感情教育」の明晰化
      • 8.4:単称名辞の回復と感情教育

おおざっぱにいえば、第1部では批判者としてのミサック、第2部は前史としてのセラーズ3、第3部は後継としてのブランダムを通してローティをみていく……といった内容。博論をもとにした本ということで当然ながら文脈の理解を求められるところがあり、第1部については伊藤『プラグマティズム入門』を、第2部および第3部については白川『ブランダム 推論主義の哲学』あたりを読んでいたおかげでしろうととして読める程度にはついていけた……んじゃないだろうか。どうでしょう。そうだといいですね。ともあれ、自分とおなじくらいの知識のレベルのひとにはとりあえずそれらを先に読むことを勧めるとおもう。

で、この構成からもわかるとおり、動機として挙げたうち1.についてはおおむね第1部で済んでいる。ただ、まさにその点でよくわからなかったところがあったため、以下。

とりあえず、第2章、特にその後半の内容(に対する自分の理解)をものすごく雑にまとめると次のようになるでしょうか。

まず、ミサックによるローティ批判のポイントは、ローティが 人類の探究におけける客観的次元 を軽視しているのではないか、という点にあるとされる。しかし、ミサックが重きをおく(学術共同体の)「探求」においてはある種の客観性が要請される一方で、ローティが重きをおくのは(人類全体の)「会話」であり、後者のような次元において客観性は必須ではない。これは職業的な哲学者としてのスタンスの違いであり、両立しうる。そして、「会話」が「探求」を包含するようなう実践であるかぎり、哲学者の責任範囲として「探求」のみにフォーカスしてしまうことは、ときに「会話」への責任ある役割を担うことの制約になってしまうかもしれない。

これ、おおまかな理路としてはとくに異論はなく、両立しうるしローティの視点も大事だよねとなるのだけれども、(ミサックからの批判へのディフェンスとして書かれているからというのはあるにせよ)「探求」の範囲とそれを担う共同体をすこし狭量にとらえすぎているのではないかと感じたんですね。われわれの日常生活における「探求」が宙に浮いているのではないか、と。そして、ミサックのスタンスをそのように狭めて述べている(ようにみえる)のは著者なのか、それともミサック自身なのか、本文を読むかぎりだといまいちよくわからなったのです。

もちろん、たとえば第1章の自然主義(とくに第1章の注33あたり)や特権的なボキャブラリーの話が関連してくるにもかかわらず自分のなかでうまくつなげて理解できていないからだったり、あるいは論集 New Pragmatists 全体の論調としてそうなっているにもかかわらずそれを知らないからだったり、つまり自分がよくわかっていない部分のあるせいだとはと思うのですが、すこし消化不良だったため、以上書いて残しておきます。

ちなみに2.のほうの動機に関しては、じゅうぶん応えてくれる本でした。おすすめや。


  1. 『真理・政治・道徳』についてはブログでまとまった感想も書いた
  2. 『人類の会話〜』のすこし前に書籍化されている。もちろんこっちも読みました。
  3. なお、セラーズの検討にあたってさらにその発想のもととなったカルナップの構文論も(本論の道筋に必要なぶんよりも多く)紹介されており、そこはまた別のいみでおもしろかった。こういうプロジェクトだったんだ! みたいな。

「自然としてのゲーム」について

こないだのBG3感想日記に書いた「ソリッドで一見しては把握できないようなメカニクスが、実験と調査にたいしてたしかにこたえてくれる感覚」について、まとまらないながらもすこしだけ。

科学と工学

まず、これに類する感覚が述べられたブログの記事を読んだことがあるはずと振り返ってみたところ、あったあった、phi16さんのこの記事だ。

ゲームの話 - Imaginantia

今回の話にまつわるポイントとしては下記だろうか。

「観測と制御」の先にあるのは「知識欲・理解欲」なのかもと思いました。つまりゲームを識ることそれ自体が楽しいのです。

そしてこのためには、「システムとプレイヤーの間の信頼関係」がなきゃならない。プレイヤーからすればなにかを入力すればそれに応じた反応がある(インタラクションが適切に設計・実装されている)と信頼できている必要があるし、システムの側もそのような「探求」をプレイヤーがおこなってくれると信頼していなければならない……みたいな話がされている。

これって、(あくまで類比でしかないものの)自然の観測や実験(自然科学)とそれを活用した制御(工学)のおもしろさになぞらえることができそうではある。現実の物理法則のようなメカニクスにたいする探求と、ビデオゲームのような融通のきかないメカニクス(およびそこに重ねられた虚構)に対する探求、みたいな。キャラクタービルドがおもしろいのは、その「自然」をどう使いこなすか、つまり工学チックなおもしろさだとか。そういう。

このスタイルに立つなら、たとえば攻略本や攻略Wikiみたいなものを見ながらプレイすることにも特有のおもしろさがある、みたいなことはいえるはず。

メタAI

似たような話題でもうひとつおもしろかった直近の記事。

ここの前編にも「ゲームは『自然』であってほしい」という喩えがでてくる。もちろん、なんのために喩えたいかという点で異なってはいるんだけど(対談のほうでは「自己変容」の話1につながる)、メタAIのようなものがその「自然」を毀損してしまうという点では共通しているともいえる。

いわゆる「メタAI」やその周辺のしくみについては「ブラックボックス的」かどうかってポイントがありそう。

  • 「メタAI」として扱われるものは、おおむね入力と出力との間がブラックボックスであると考えられているのではないか
  • そもそもブラックボックスでない場合、その調整はプレイヤーの分析によって引きずりおろされ攻略に利用される、つまり「メタ」なものでもなんでもなくなってしまう。バトルガレッガのランクシステムあたりを想像するとわかりやすいか
  • そのいみで、対談の後編の最後のほうに出てくる「キャラクター化されたメタAI」みたいなものは「メタ」ではないのでは
  • 「ブラックボックス的」という語はちょっといけてない。なんらかの傾向性というかおもてなしがなければただのRNGになってしまうし、たんに隠されているという話ならマスクデータもそうなので、そのへんの違いも含められるもうすこしうまい表現ができればいいんだろうけど……

ブラックボックスだと、それ以上探求が続けられないからね、と2

だから、(先のBG3の感想にもちょっと書いたんだけど)たとえばGMがいまの生成AIの延長線上にある(もっと賢いけど、そのゲームのかぎりで楽しませてくるような役割のみを果たす)ような、なんらかのいみでTRPGぽさを再現したいCRPGがあったとして、それってやっぱ「違う」んだよな。機械的な融通の効かなさがなきゃ探求の対象にできない。けっきょく自分しか見てくれないというのは、上述の「信頼」がない状態であるともいえるかもしれない。この点でいえば、むしろ人間のGMだとゲーム外でのつながりや別種の融通のきかなさがあらわれるぶんむしろ「自然」に近づくような気もしてしまう。あるいは、考えてることがなんもわからん(開発者にもわからん)ような「メタAI」ならそれはそれでおもしろくなるのだろうか。いや、それは三体世界で科学をやろうみたいな話になってしまうのかな。とかとか。

ぜんぜんまとまらないが、以上いったんメモ程度に。


  1. 対象が同じでなければ自分が変わったかどうかがわからない/対象が同じでなければほかの人との感じ方の違いや一致することのうれしさもわからない、みたいな話。明示的には触れられていない(とおもう)が、意見交換による自己変容も起こりづらいといった点も意識されているのかもしれない。これらには同意する(自分もそのタイプのプレイヤーだと思う)が、今回の話とはまた別のはず。
  2. RNGだと確率として記述できる。もちろん疑似乱数であるため、その方向への「探求」が可能なケースもある。

『ユニコーンオーバーロード』と「デッキ構築」、あるいはメカニクスの抽象化について

以下の記事を読んで気になったことがあって、それについてちょっとだけ。

ユニコーンオーバーロードのバトルシステムが素晴らしかったのでそのヤバさを説く|だらねこ

同記事では『ユニコーンオーバーロード』について、アトラスの山本氏の発言を引きつつ「デッキ構築」というキーワードをとりあげており、「シングルデッキ構築」をおこなう『Slay the Spire』と「マルチデッキ構築」をおこなう本作とを対比しています。そのうえで、「マルチデッキ構築」によって実現されるおもしろさが以下のように述べられています。

  • 組み上げたビルドをボコボコにしていい
    • 特定のビルドを強烈にメタる敵が出てきてもかまわないため、以下の役割の明確化につながる
  • 役割の明確化とフォローのための構築
    • 部隊単体で強みを伸ばしたり弱みを緩和することを考えたり(「デッキ内の需要」と表現されている)、自軍全体でのリソース配分を考慮しながら部隊相互の役割分担を考えたり(「デッキ間の需要」と表現されている)できる

これらがそのとおり実現されている点については同感です。ただいっぽうで、いったん「デッキ構築」というキーワードを忘れて考えてみれば、これってパーティ内での役割分担のあるロールプレイングゲーム1のおもしろさとして挙げられるものと同じだともおもうんですよね。本作じたいいわゆる「SRPG」2として売り出されているのだからそうなって当然とさえいえるかもしれない。つまり、「マルチデッキ構築」のおもしろさを実現するメカニクスじたいは、ある程度抽象化するならば「パーティ内での役割分担のあるロールプレイングゲーム」であればおおむね存在しているといってよいはずなのです。「部隊」を「キャラクター」として、それらをまとめた自軍を「パーティ」としてとらえる、ないしはそういったフィクショナルな意味づけを捨象してメカニクスだけを抽出したときに、「ビルドの要素がちょっとややこしいロールプレイングゲーム」として包括してしまえる。したがってこの水準では、本作に独自とはとくにいえない、と3。なんならオンライン闘技場のおもんなさについてだって、そういうRPGにおいてパーティ内での役割分担もできないキャラひとつで戦うことのおもんなさを考えればわかりやすいかもしれません。

もちろんこれって、「ちょっとややこしい」の内実がだいじという話でもあります。「1つの自軍」-「10の部隊」-「5人のキャラクター」-「各種の装備/スキル/作戦」という意味付けにもとづく層構造をつくることによって、ビルド要素の複雑さを整理し、各層でのビルドの多様性を確保している……みたいなこともいえるでしょう。それこそ『伝説のオウガバトル』などである程度実現されている構造なのですが、あまりフォロワーがいなかった4ことから新鮮に感じられるというのはあるでしょうし、もちろんより洗練されてもいる(とくに作戦はいいですよね!)。同記事中の「50キャラに感情移入できるゲーム」の項の内容は、この構造(と、同記事にもあるとおりヴァニラウェアの力技)がその実現をたすけているということになるはず5

……という感じで、山本氏の発言に引きずられた6せいか、抽象化とそれによる比較のしかたに違和感があったという話でした。


  1. (特にテーブルトップの)RPGにおいて役割分担は本質的な特徴のひとつだよみたいな考えかたもあると思いますが、ビデオゲーム作品のなかでRPGとされるものにおいてはとくだん必須となってはいないのが実際のはずです。ところで、このサイトで紹介されている「コスティキャンのゲーム論」についてはその改訂版の邦訳が最近公開されている
  2. 本作や『伝説のオウガバトル』のようなRTS的なメカニクスを持つそれが典型的なSRPGとして認識されているかといえばまったくそうではないけれど、とはいえゆるいジャンル意識のなかには確実にふくまれるためミスリードとはいえない、くらいの認識です。
  3. ここでは触れませんでしたが、そのうえでこれをStSフォロワーなローグライトデッキ構築ゲームと比較するときに各周回での構築のランダム性みたいな観点を捨象してしまうのは、支払うべきコストがあまりに大きいんじゃないかとも思っています。とはいえこれはまた別の話ですね。
  4. いやもちろんRTSという意味ではいくらでもあるんだけど、SRPGに近縁なものとしてつくってあるものは……あんまり……ないですよね……? たぶん……。Symphony of Warくらい?
  5. このへんについては、先般刊行された『日中韓のゲーム文化論』所収の松永「様式化されたシミュレーション:JRPGの「不自然さ」を考える」でファイアーエムブレムに言及しているあたりもおもしろいのでおすすめです。オリジナルの論文がこちらでも読める。
  6. おそらく(このあたり自分はまったくわかっていないので自信がないのですが)、いわゆるソシャゲ的な「カード」の構築を意識した発言なのではないかという気がします。