投稿者 門脇 篤史投稿日: 2023年6月1日2023年5月28日錠剤を押し出す力の弱ければはるかな岸の鹿を恋うなりにコメント
錠剤を押し出す力の弱ければはるかな岸の鹿を恋うなり
小川佳世子『ジューンベリー』砂子屋書房,2020年
これから飲もうとする錠剤を、プラスチックとアルミで挟んだ包装シートから取り出そうとしている状況だろう。「弱ければ」とあるので、指に力が入らずに難渋している。歌集には病を詠った歌が多く収録されており、「弱ければ」はこの瞬間の偶発的なことというよりは、恒常的な力の入らなさだと思われる。
情景がイメージしやすい上句と下句の間にはずいぶんと飛躍がある。下句で現れるのは「鹿」だ。それも「はるかな岸」にいる「鹿」。
「はるかな」の一語によって「鹿」のいる岸との距離はたどり着けない遠さに規定される。岸にいる鹿なので、奈良公園や動物園の檻の中にいる鹿ではなくて、もっと自然の中に棲んでいる野生味の強い鹿を想像する。
錠剤を押し出すのに難渋する主体と大自然の中を生き抜いている「鹿」には対比があるし、「恋うなり」という結語によって、鹿的なものを希求している主体も浮かび上がる。
こうやって評文を書くと、理屈を通しても読めるように感じてしまうのだけれど、一首を読んだ時に理屈めいた印象は薄い。シートから錠剤を押し出そうとしたその瞬間に、鹿の姿が思い浮かび、「恋う」としか思えない感情を抱いた、その一連の流れを読者は追体験する。
距離のある上句と下句を無理やり「ば」で接着しているのだけど、四句目は「はるかな」という少しぼやけたはじまり方をするので、唐突感は薄れる。〈弱ければ鹿を恋うなりはるかな岸の〉とでもすれば鹿がクローズアップされ、対比も鮮やかになるが、作為性も増すように思う。「はるかな岸の鹿」の順で登場することで、靄がかかったような岸がまず現れてそこに鹿を見出す、そんなカメラワークで像が結ばれる。
雨音を聞く仕事ならしてもいいどこか遠くの緑の窓で/小川佳世子『水が見ていた』
溢れ出すままにしておく洗面器 この世の果ての全方位滝
イグアスの滝をあなたが見たときにわたしはちょうど吐いていました/小川佳世子『ゆきふる』
台風はみずからの名を知らず過ぎ名のりてのちにそれになる我
川に出る視界は広がり山近くああ晩年を生きているなり/小川佳世子『ジューンベリー』
日常から思考が飛翔する、小川さんのそんな歌が好きだ。一首を読んでいると、思考の跳躍力を追体験できるように感じられる。飛翔先がただ提示されるのではなく、蹴るべき地面の存在がちゃんと感じられるように思う。
「いくつかの臓器は逃してあげたのか やっと開いた花水木見る」(『ゆきふる』)、「食べ物をためるところが無くなって一本の線私の腹は」(『ジューンベリー』)というように、歌集には、特に第二・第三歌集には病のことを詠んだ歌が多くあり、生きるということに深く病は結びついていて、それを力強く歌に昇華する。
そして、そこには、絶えず水の気配が感じられるのだ。
青空にジューンベリーの花の白 今までのすべて号泣したい/小川佳世子『ジューンベリー』
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錠剤を押し出す力の弱ければはるかな岸の鹿を恋うなり
投稿者: 門脇 篤史
2023年6月1日
『独裁者たちのとき』
見終わってまず「映画界のおじいは元気なうえに過激過ぎるやろ!」と叫ばずにはいられなかった、アレクサンドル・ソクーロフ監督『独裁者たちのとき』。 AIやフェイク動画は一切使わず、アーカイブ映像のみでヒトラー、スターリン、チ…
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2023-05-25
2023/05/25
⚫︎『水星の魔女』、18話(プロローグを含めると19話目)。「ウテナ」の黒薔薇編みたいな懺悔室が出てきたけど(マルタンが懺悔している)、あれはなんなのだろうか。
今回は主に、地球寮の友情と結束(しかしマルタンが不安定要素)、ミオリネの決断(しかし、ほぼプロスペラに操られている)、スレッタとエアリアル(エリィ)との決別、というのが主な出来事だと思うけど、それ以外にも気になるところがちょいちょいあった。
あり得ると思っていた、スレッタ-ミオリネ-エリィの「娘たち」の連帯は、完全に分断されてしまった感じだけど、今後はどうなるのだろうか(分断されたまま、ということはないのではないか)。今のところ、まだ、プロスペラがやろうとしていることが何なのかが分かってなくて、さらに、スレッタが、ここからどう動くのかも分からない。ミオリネ-グエル連合は、完全にプロスペラに操られているが、二人がエアリアルと共に地球に降り立つことと、プロスペラの計画は何か関係があるのか。
ペイル社は、今のところ、一応、シャディクの配下にあるが、ペイル社のCEOたち、およびオリジナル・エランが、どう動くのかも分からない。
色々仄めかされてはいるが、まだまだ、どうなるか分からないところが多い。そして最も分からないのは、この後のスレッタがどうするのかということだろう。次回、スレッタがどうなっているのか、みるのが怖い。
(おそらくグラスレー寮のどこかに閉じ込められている・閉じこもっている、ニカ、エラン五号、ノレアの三人は、どうなるのだろう。ぼくはこの三人のシーン、特にエラン五号がとても好きだ。)
⚫︎ミオリネからもエアリアルからも切り離されてしまったスレッタが、しかし地球寮の友人たちと「普通の学園生活」を送っていて、やりたい事リストを次々と埋めていくというこの状態は、スレッタが本来望んでいた事であり、そして、ミオリネや(散々スレッタを操り、利用してきたにもかかわらず)プロスペラが、そうあることが彼女の幸せだと思っている状態ではある。
でもそれは、スレッタを舐めているというか、スレッタを「無垢な愛されキャラ」に留めておきたいという、ミオリネの、ある意味で「上から目線」からの考えだと言える(そもそもスレッタは、一度は「怪物化」して人を殺しているのであって、もはや無垢ではあり得ない)。スレッタはミオリネと出会ってしまったし、ミオリネはスレッタと出会ってしまった。この事実がある以上、スレッタは「無垢な愛されキャラ」に留まっていることはできなくて、スレッタ-ミオリネの対等な関係が回復されなければならないと思う。
前回ミオリネは「スレッタにはガンダムとか何にも縛られない世界で幸せになって欲しい」と言った。しかしそれに対してグエルは「そんな世界はないよ」と言う。これは、ミオリネの「上から目線」に対するグエルの批評だ。スレッタは、出自からして既に「プロスペラの陰謀」の一部であって状況に深く関与してしまっているし、(ネオリネを助けるためとはいえ)プロスペラにそそのかされて人を殺してしまっている。だからこそ、スレッタに必要なのは「楽しい学園生活」ではなく、脱プロスペラ化(脱プロスペラ的主体の確立)であり、そのためにはミオリネとの対等な関係の回復が必須であると思われる。
(これはまさにウテナとアンシーの関係で、空っぽなアンシーは、ウテナとの関係によって初めてアンシー自身であり得たのだった。ただそれが、ウテナへの依存という形をとるならば元も子もないので、二人の関係は対等でなければならなかった。)
ここで重要になるのが、スレッタのアイデンティティとガンダム(エアリアル)との関係だ。つまり、脱プロスペラ=脱エアリアルなのか。それとも、スレッタとエアリアルとの密接な関係によってこそ、脱プロスペラ化とミオリネとの関係の対等化が可能になるのか。まあ「ガンダム」なのだから後者であるのだろうが。スレッタとエアリアル(エリィ)との絆が、どのような形で回復され、(おそらくそれを通じてだと思われるが)どのような形でスレッタとミオリネの絆が回復されるのかというところが、これから重要になってくるのではないか。
furuyatoshihiro 2023-05-25 00:00
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