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鎌田への反論を『週刊読書人』に掲載
『週刊読書人』2025年7月18日号に、鎌田哲哉への反論文を載せた(「永遠の鬼軍曹に「思想」はあるのか―鎌田哲哉の自称「革命精神」に対する根源的疑問」)。『読書人』6月6日号に鎌田が載せた長篇書評「<遠望の不在―「批評ロボット」の荒廃について>大杉重男著『日本人の条件』(書肆子午線)批判」に対する応答文である。『日本人の条件』は刊行から九ヶ月以上経つが、ほとんど反響らしい反響がなく黙殺されている中、鎌田が否定的とはいえ、本書の具体的な内容に踏み込んで批評的な文章を書いたことには感謝しかない。鎌田がどんなに私を罵倒するにしても、「最後の文芸批評家」という帯文の文字にしか反応しない(しかもまったく意味のない反応しかできない)ネットの批評家たち(たとえば王寺賢太や杉田俊介など)よりは、ずっと私にとってありがたい存在である。鎌田は少なくとも私の本の幾つかの部分を真剣に読んで、自分の文脈に引き寄せて批判している。そしてそのおかげで私は、自分の本について『読書人』という公共メディアで具体的に自己解説する機会を得た。
もちろんこの反論文で、私は返す刀で鎌田を斬っているし、ある意味活字になった初めての鎌田哲哉論かもしれない。字数の関係で、東アジアと文学の問題への応答に重点を置いたので、憲法一条と九条の関係については、もっと書くべきことがある。鎌田が再批判してくれれば、それへの再反論の中で触れられるかもしれないが、『読書人』のキャパシティでは限界はやむを得ない。
鎌田は私の本に誤植や錯簡が多いことを批判していたが、今回の反論文でも早速自分で誤植を発見した。谷崎の『吉野葛』に触れたところで、「自天王」と書くべきところをすべて「自天皇」にしていた。何度も読み直していた時には少しも違和感を感ぜずに読み流していたが、届いた紙面を読んですぐに気がついた。そしてそもそもなぜ「自天王」なのだろうと今更な疑問を覚えた。これは自天‐王と区切るのが正しいのか。つまり「自天王」は親王であるということなのだろうか。私は「自天皇」と表記することで、「自称天皇」のようなニュアンスで読んでいた感じがする。いずれにしてもこのようにいちいち漢字に振り回されること自体、ヘーゲルが漢字を使用する中国文化について批判的に述べた「注釈主義」の効果には違いない。
鎌田は、天皇制批判は革命の入り口に過ぎず、その先の未来の「遠望」が必要との考えだが、私は天皇制廃止の目処が全く立たない(むしろ参政党に見られるように天皇崇拝の回帰が目立つ)現在において、廃止後のことを考えることにどれだけの意味があるのかと思う。私は絓秀実に『群像』の書評で「講座派」と批判されたが、天皇制を棚上げして「党」的なものによる共同体の再生を優先する「労農派」的思考には、絓にしても鎌田にしても(更に遡って柄谷にしても)、後ずさりしながら天皇制と東アジア的専制主義に吸い込まれていく未来しか見えない。私は現実的に確かに天皇制を廃止できる道筋を見出せているわけではないが、「労農派」的偽善性には同じがたく、天皇制と東アジア的専制主義に縛られている私たちの姿を、露悪的と言われても直視するところから始めるしかない。
この鎌田との「論争」が今後どうなるかは、鎌田次第だが(論争のために貴重な時間が奪われると怒るなら、黙って自分の「仕事」をすればいい)、私としてはこの本のさまざまな思想的・文学的ポテンシャルを展開するチャンスなので、私の方から降りる気はない。『読書人』のルールでは最大三往復できるとのことなので(字数は減っていくだろうが)、最後の言葉を発する権利は私にある。
2025-07-24 :
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