▽航天機構 -lifelog ●01/10 10:58 航天機構履歴what's new 水城self introduction 読書bookreview 宇宙space development 化猫"GEOBREEDERS" 雑記text 他薦link Send mail to:mizuki@msd.biglobe.ne.jplifelognot diary, not blog-過去ログ-■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#8 -2021年11月20日(土)00時08分JPLは陸軍の管轄になった。短距離弾道ミサイルコーポラルを完成させると次は固体のサージャントミサイルの開発を始めたが、そこから先、大型弾道ミサイルの開発は他の組織、企業が担当しておりJPLの出る幕は無かった。1953年、ソ連が水爆実験に成功したと喧伝すると、これを受けて戦略ミサイル評価委員会、いわゆるティーポット委員会はアトラス大陸間弾道弾の開発を最優先とする事に決め、コンベア社を監督するためにサイモン・ラモとディーン・ウルドリッジの会社に任せることに決めた。後のTRW社だ。JPLは1954年、マリナの次の次の代のマネージャ、ビル・ピッカリング(William Hayward Pickering)の代になって宇宙開発の夢を取り戻した。同年ピッカリングは国際地球観測年に衛星を打ち上げる提案をした。同じ陸軍のフォンブラウンのチームと組もうというものだった。だが、衛星打ち上げの優先権は海軍調査研究所(NRL)に与えられていた。NRLのヴァンガードプロジェクトはヴァイキング観測ロケットとエアロビーの組み合わせでは能力が足りないとされ、ヴァンガードロケットTV-2、試験三号機から一段目エンジンをリアクションモーターズ製からGE製液酸ケロシンエンジンへ、二段目をエアロジェットの硝酸UDMHエンジンに変更することになった。この硝酸とUDMHを使う二段目、エイブルはその後、様々な組み合わせで上段として利用されることになる。ソー・エイブル打ち上げ機の二段目はヴァンガードロケットの二段目と実質同じものなのだ。エンジンAJ-10も改良されながらアポロ司令船やシャトルにまで使用された。日本のN-IIロケットの二段目にもAJ-10は使用されている。当時開発の難航していたアトラス大陸間弾道弾のバックアッププロジェクト、タイタン大陸間弾道弾の一段目エンジンもエアロジェットは提供している。液酸ケロシンでも四酸化窒素とエアロジン50の組み合わせでも、液酸液水でも動作するLR-87エンジンだ。実際には、衛星打ち上げ開発の本命はダグラス社から独立したランド研究所がおこなっていた秘密の偵察衛星プロジェクトWS 117L、後のコロナだった。JPLは再突入弾頭の技術開発のために、フォンブラウンのチームと共に弾道飛行再突入試験の打ち上げをおこなった。この間にフォン・ブラウン、ヴァン・アレンらと共に衛星打ち上げのための準備は進められていた。フォンブラウンは1950年に弾道ミサイルの予備設計レポートを提出し、従来のV-2ベース弾道ミサイル開発計画ヘルメスC1を改組してノースアメリカン社のエンジンを選択、このRGM-11"レッドストーン"の生産が軌道に乗るとノースアメリカン社はロケットエンジン部門をロケットダイン社として分社した。ロケットダインは以降大型液体ロケットエンジンのメーカーとしてナンバーワンの地位を築いていく。弾道飛行再突入試験のために使用されたジュノー1打ち上げ機の一段目は次世代ジュピター弾道ミサイルのために新しいアビオニクスを試験するための機体で、だが外見は全くレッドストーンだった。二段目、三段目はサージャント固体ミサイルの固体推進剤をベースにしたベビーサージャントを利用していた。あとは衛星が自分で四段目を持てば軌道投入が可能だったのだ。1957年10月、ソ連のスプートニクの勝利の直後、サマーフィールドは次のようにコメントした。"ロシアの "スプートニク "の成功は、遠くない将来の宇宙旅行の本当の可能性を、世界中の人々に説得力のある劇的な証拠として示した。重量184ポンド径23インチの球体をほぼ正確な円軌道に乗せたという事実は、高推力ロケットエンジン、軽量ミサイル構造、正確な誘導、安定した自動制御、大規模な打ち上げ方法など、多くの重要な技術的問題が、少なくとも衛星プロジェクトに必要な程度には解決されていることを示している"液酸ケロシンの新エンジンを採用したヴァンガードロケット試験機TV-2はスケージュールを大幅に遅延した末に打ち上げられたが、それは衛星打ち上げ機では無かったし、そしてスプートニクの打ち上げのあとだった。本命の衛星打ち上げ機、1957年12月のヴァンガードロケットTV-3は射点の上で屈辱的な打ち上げ失敗、爆発をした。この直後JPLと陸軍は衛星打ち上げの許可を得て、翌年1月31日にエクスプローラー1号の打ち上げに成功した。その年のうちに連邦政府下の文民独立の宇宙開発機関NASAは発足し、その二か月後にJPLはNASAの管轄に組み替えられた。但しカリフォルニア工科大学の管理下であるのは変わっていない。ビル・ピッカリングはそのまま1976年までJPLのディレクターを務め、宇宙開発の範囲を外惑星まで押し広げた。1955年にようやく銭学森は中国に帰国することが出来た。ここからの銭の経歴は更に激動の中に置かれることになる。帰国後の翌年2月、銭は意見書"建立中国国防航空工業的意見"を党中央に提出し、早速3月には中国の科学政策の中にロケット開発が組み込まれている。4月には航天工業委員会が立ち上げられ、5月には弾道ミサイル開発が決定された。10月、銭学森は新設された国防部第五研究院の院長となった。1957年8月、ソ連からの技術援助が受けられる事が決まり、ソ連製弾道ミサイルR-1、R-2、R-5のコピー生産が優先されることになる。時は大躍進政策の頃、人工衛星を打ち上げたソ連はまぶしい存在で、中国も独自の人工衛星打ち上げをおこなうことが決定された。銭の管轄範囲は一挙に拡大した。だがこのソ連との蜜月は2年も続かなかった。1959年6月、中ソ間の関係冷え込みに伴い、中国への技術支援は打ち切られる事となった。更に衛星計画は国力に不相応と、開発の停止判断がなされ、弾道ミサイルの開発に注力する事となった。1960年2月、上海交通大学の柳南生と王季希は観測ロケット、探空7号模型ロケットを打ち上げた。これは構想された探空7号の縮小モデルだった。推進剤はフルフリルアルコールとアニリンの混合物と赤煙硝酸の組み合わせで、打ち上げには長大なガイドレールを用いていた。これはWACコーポラルの技術そのものであり、もちろん銭学森の助言のもとに製作されたのであろう。上海交通大学は銭学森の母校である。中国の宇宙開発はWACコーポラルの段階からやり直しを図ったのだ。この地道な努力は1960年代を通じて続けられた。しかし1966年には文化大革命がやってくることになる。銭学森は1967年初頭に平職員の地位まで降格され、自己批判文への署名を強要された。混乱の中、銭は権力におもねり、権力者の敵を批判した。銭にとって不幸だったのは、批判した相手が〓小平だったことだろう。1976年の四人組の逮捕と〓小平の復権によって中国の宇宙開発は再び動き出したが、そこに銭学森の姿は無かった。銭学森は宇宙開発の最高指導者の地位を追われた。銭学森はその後、気功の研究に手を出す事となる。銭もまたパーソンズを通じてオカルトに魅力を感じていたのかもしれない。彼が気功を科学の研究対象であると宣言した事により、中国で気功はブームとなる。銭学森自身は、その後1989年の六四天安門事件において、〓小平と李鵬らを支持する声明を発表する事により、再び露骨に権力側にすり寄った。その甲斐あってか、1991年には、国家に貢献した科学者たちの列に銭学森は再び加えられている。1958年、チオコールはリアクションモーターズを買収した。チオコールは固体弾道ミサイルの推進剤供給で業績を上げ、スペースシャトルのSRB製造を担当したが、チャレンジャー事故で原因とされて評判を落とした。ジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社はやがてエアロジェット社を完全に傘下に置き、その過程でカルマンやサマーフィルドの所持株はジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社に買い取られた。同社は1984年にジェンコープに改名した。2013年、エアロジェット社はジェンコープに買収されたロケットダイン社と合併し、更に親会社ジェンコープとも合併してエアロジェットロケットダイン社となった。更に2020年、エアロジェットロケットダインは50億ドルでロッキードマーティンに買収されている。自宅の裏庭でロケットをつくるロケット愛好家たちは現在に至るまで絶えることなく活動を続けている。反動推進協会 Reaction Research Society(RRS)は1943年1月に南カリフォルニアロケット協会として誕生し、以来ロケット打ち上げ続けてきた。別に存在したカリフォルニアロケット協会との混同を避けるために2か月後にグレンデールロケット協会と名を変え、更に1946年に今の名前になった。この団体は1949年と50年に液体一液式ロケットを打ち上げている。彼らは1955年にモハーベ砂漠の端に土地を確保し、以来テストスタンドや射場が整備されている。7トン近い推力の液体エンジンの開発経験があり、同時に初心者にも扱いが容易で安全な固体推進剤の開発にも熱心である。カリフォルニアロケット協会も現在まで存続し、熱心にアマチュアロケットの打ち上げイベントを開催している。彼らの打ち上げイベントは年二回開催され、毎回600~700人の若者が両親とともに集まってくる。トリポリロケット協会は1964年にペンシルベニア州アーウィンの高校生が設立した科学クラブにその起源を遡る。この設立の際にメンバーの親が活動資金にと寄付した金貨がレバノンのトリポリから来たものだったため、クラブ名はそう決定された。やがて活動はアマチュア用ロケット打ち上げが主なものとなった。彼らは他の高校と、同じ高校生同士でアマチュアロケット打ち上げの横のつながりを作り、やがて高校のクラブから独立した組織に成長した。メンバーのうち数人がアマチュアロケット製造企業に就職し活動を継続したが、残りの熱心なメンバーはやがてハイレベルなロケット打ち上げ活動を断念していった。1985年に全米ロケット協会が全国のアマチュアロケット組織をまとめようとしたとき、活動をなんとか継続していたトリポリロケット協会はその下地を提供した。現在トリポリロケット協会は全国組織として規約を作り、規制を取り払う作業をおこなっている。全米ロケット協会は更にモデルロケットモーターを認定し、会員証を発行し、保険制度を整備し、奨学金制度を運用している。2004年、アマチュアロケット活動家の有志で組織されたチーム、Civilian Space eXploration Teamは直径10インチの固体推進剤ロケットで高度116kmに到達した。月に最初の人間が降り立った後も、多くの人間が自分でロケットを作り、打ち上げ、宇宙に挑み続けた。政府機関や軍だけでなく、アマチュア組織や民間企業も宇宙開発に参加するようになった。1980年に設立されたスペースサービス社は、液酸ケロシンのガス押し式ロケットで安価に衛星打ち上げ機を構成できると主張していたゲイリー・ハドソン(Gary C. Hudson)らと独自民間ロケット、ペルシュロン打ち上げ機の開発をおこなったが、最初の打ち上げ機を射点の上で爆発によって失うとハドソンは去り、代わってドナルド・スレイトンを迎え入れた。新しく開発されたロケット、コネストガは、カストール固体ロケットを束ねたものだった。カストールの元々はJPLで開発されたサージャント固体ミ