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ある白人の男やもめの告白
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雀鬼会 オフィシャルサイト
●04/14 09:51
■2025年4月12日(土) Vol.7534「調子は、どうだい」入って来た恒の野郎、「元気ハツラツです」続いて来た、しげるも、「爽やかです」それなら結構。俺は、そんな気分じゃなかったが、卓球の早矢ちゃんから電話。まだ2才なのに、お嬢は明るく楽しそう。「雨降り母さん」の歌を一緒に唄う。いい曲ですね。2人してインフルエンザで高熱を出したらしい。俺は、人生で、まだ、そういう病に引っ掛かったことがなく、この年まで生き延びている。夕方にBIGの差し入れの馬刺しの柔らかい肉を食べる。先日の新井が持って来た松坂牛より旨かった。深夜食堂はメヌケ鯛の鍋。馬刺しはサッパリ、鯛は脂が乗って、これまた旨し。6人で鍋を囲んだ。こういう食卓は、いいもんですね。また早朝の4時です。エリート人種より、ホームレスさんの方を好む俺です。雀鬼会長はじめ皆に旨いと言って頂き、うれしかったです。会長に手を加えて頂き、とろけるような柔らかさの馬刺しになっていました。アジのたたきに近いというのも、夏の別荘につながったみたいで良かったです。おかげで、食事会のゲスト席を頂きました。大人の味の鍋を囲む食卓は、贅沢なものでした。皆が持ち寄る場に加わるのは楽しいです。(BIG)どちらかと言うと、自分は、うっかり八兵衛かと。ホームレスさん、座り方は女性っぽいですが、姿勢は悪くない気がします。上着は自分より良い物に見えてしまい、また完敗です。(恒)最近の、ホームレスさんは、おしゃれですね(笑)(ママ)お気持ちがあってこそと

ABURE-MON
●04/14 09:06 日刊わたしのタンブラさん
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わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
●04/14 08:58
見切る読書で積読を解毒する『翻訳者の全技術』何十年も向き合ってきて、今でも何度も読み直す本がある。辛いとき・キツいとき「あの棚にあの本がある」と思い浮かべるだけで励みになる本がある。もし出会わなかったら、今の私は無かったと断言できる本がある。ガチガチの価値観を更新し、アンパンマンの頭のように「私」を取り換えてしまった本がある。おそらく数十冊、多くても百冊ぐらいの、そんな本を、エッセンシャルブックと呼んでいる。沢山の本をとっかえひっかえ読んだり、新刊本をブックハンティングするのは、そんな本と出会うためだと思ってきた。だが、そろそろ振り返って、積読山と向き合わねばならぬ。理由は2つある。ひとつは、量こそ遥かに多いけど、クズみたいな本が大量にある書店よりは、年月をかけて賽の河原のように積んできた山の方が、「あたり」を引く確率が高いこと。もう一つは、残りの人生ぜんぶ費やしても、この山を読みつくせないことは明白であるばかりか、この山から選んだ「あたり」を読む時間すら残されていないから。とはいえ、本を読むスピードと、本を買う+借りるスピードは、比ぶべくもない。積読は山ならぬ山脈を成し、家のあちこちで繁殖する。仕方がないのだとあきらめるか、自虐的になるか、それでもあがく。そんな時に、山形浩生『翻訳者の全技術』を手にした。これは、翻訳に限らず、山形浩生の読書論であり人生論であり「知との向き合い方」を語った本だ。読書家の悩み「積読」で、山形に言わせると、積読は、本に対する裏切りだという。どこかの誰かに読まれるだろうという期待を込めて作られた本を読まずに積むのは、期待を踏みにじる行為だという。死蔵された本は文字通り死んでいる。痛い。ド正論で、めちゃくちゃ痛い。でも、そういう自分はどうなん?と思う。彼は、ピケティ『21世紀の資本』をはじめ、様々な領域で大量の本を翻訳してきた。Linuxのようなオープンソースの古典『伽藍とバザール』、囚人実験の先駆け『服従の心理』、Netflixでドラマになってる『エレクトリック・ステイト』などを翻訳している。めちゃくちゃ引き出しがある人で、真の教養人といえる(彼の紹介する本や解説には、めちゃくちゃお世話になった)。彼の本棚の写真を見たことがあるが、とにかくデカくて横幅のあるやつだった(もちろんそれだけじゃないだろう)。だから、その正論は諸刃の剣ともいえる。自分も積読に悩まされるんじゃないの?正解だった。彼は白状する、本棚の前を通るたびに「すみませんすみません」と罪悪感に囚われていたという(ここ笑った)。積読とはそういう後ろめたいものであり、借金の督促状みたいなものだという。この先は、twitterでやってる半分自虐、半分自慢みたいな積読話になるかと思った。あるいは、『積読の本』に登場する12人の積読家のように開き直るのだろうかと半ば期待した。しかし山形は、正論パンチを続ける。20代、30代ならご愛敬だが、「いつか読む」という可能性は、先送りすればするほど失われる。「読まない本にこそ価値がある」などと言ってみせるのは倒錯であり、放置すればするほど精神は淀み、知は腐敗するという。積読について開き直ったりやせ我慢をしたり、何かしらポジティブな主張するのが流行っている。そうしたエクスキューズを一つひとつ抽出し、丹念に潰してゆく。言い訳を先回りして塞ぎ、弁解や逃げ口上をつるし上げる。以下なんて、完全なホラーだ。心拍バクバク、血圧マシマシ、冷や汗タラタラしながら読んだ。そうした無価値の山と化した積ん読を放置しているのは、その人の怠慢であり、未練でしかない。そしてそれを「読まなくったっていいんだ」とうそぶくのはごまかしであり、自分が目を向けられずにいる己の失敗やまちがい、自分のかつての浅はかさ、そして何より、自分の怠慢と先送り。やると言ってやらなかった数々の小さな積み重ね。果たせなかった約束の数々。できもしないことを、できる、やると大見得切ってしまった恥ずかしさ。もう読むことはないと自分でもわかっている積ん読には、そのすべてが淀んでいる。 そうした無数の無責任、不義理。かつてのプライド。しかし、なんだか様子がおかしい。この本は、インタビュアーを相手に放談会を行ったもののまとめだ。そのため、話が突然スライドしたり深みにハマったりしている。だが、この積読の箇所だけは妙に腰を据えて神妙に語っている。おそらく、これは彼の体験であり、反省であり、告白なんだろう。本を読む人なら誰だって、言われなくても分かっている。それをあえてド正論で追い詰めても仕方ないことは分かっている。だから、これは、かつての自分に向けた正論パンチなんだろう。積読を解毒するでは、そんな山形が、どのように積読山を崩していったのか。読まない本とは、かつて自分が自分にした約束の不履行だ。他の誰にも任せられない後ろめたさは、時間が経つほど毒を持つ。私の場合、「『あとで読む』は、後で読まない」と肝に銘じ、一頁でも一行でも「読んだ」ことにしている。本当は、そんなことをしても読んだことにならず、単に自分をごまかしていることは百も承知だ。それでも、莫大なお金と時間を費やして集めてしまった山を前にして、正気を保つために必要な儀式だと思っている。彼の場合、一冊ずつ取り組んでいったという。「これはすごい本に違いない」というハードルを、手元の一冊を読むことで下げる。相手の手のうちを見抜きながら、その著者や分野への期待効用を下げていく読み方だ。本書で自身が述べているが、山形浩生は頭がいい。この「頭がいい」とは、対象の本質をすばやく理解し、自分の言葉で説明できるという意味だ。「結局何が言いたいの?」という問いを常に発している人だ。もちろん「結局何が言いたいの?」というスタンスは誰だって持っているだろう。だが彼の場合、これを徹底している。本を読むとき、頭(テーマ)と尻(結論)を先に読んで、あらましを捕まえる。推理小説でも末尾の種明かしから読むとのことだ(もったいなくない?)。「結局何なの?」と突き詰めていくと、大したことを言っていないことに気づくという。トロツキーはスターリンの罵倒を繰り返しているだけだし、ピンチョンは思わせぶりなネタを並べるだけで無内容だし、フエンテスも反近代的な妄想をまぶしているものばかりだという。すごいと思い、いつか読んでやろうと積んでいた本は、実はそんな大したことないことに気づく。自分で勝手に期待していたものに、自分で幻滅していく。「こんなものか」と気づいてしまう。これは、知的対象を神棚から引きずり下ろすような態度だ。山形の読書は、「崇高な対象への崇敬心」を丁寧に解体していくベイズ推定的なプロセスとも言える。つまりこうだ。そもそも積読山に刺さっているということは、「これはすごいに違いない」とか期待したからそこにある(事前確率やね)。でも、実際に本を読み進めていくと、それっぽいネタが並んでいるだけで整理もされていないし、前作と似たような展開だと気づいてしまう。もし本当に「すごい本」なら、きっとこんな内容であるはずという期待との一致度(尤度)が乖離している……なので、「読んでみたけど、大したことないかも」という事後確率が更新されていく。こんな風に、主観的に信じた仮説(=すごい本)を、実際の検証(=読書)によって体系的に修正していく。このやり方、多かれ少なかれ、誰もがやっていることだろう。だが彼の場合、それを徹底的にやる。本質をつかみ取る頭の良さを発揮して、「結局何なの?」を突き詰める。必要なら原著にあたり、自分が理解するために翻訳する(彼が翻訳してきた膨大な本は、もとはと言えば自分の理解のために始めたものが多いという)。私なら「エラい人が誉めているけど俺に理解できないのは、俺が足りないから」と尻込みするところを、原著に当たった上で「そいつ自身が分かってないまま有難がってるだけじゃねーか」と切断する。これだと、ガッツリ崩していくことができる。彼は10年かけて、「見切って」いったという。彼が若いころに影響を受けた橋本治と対談をした後、強く失望して、「見切る」ところなんてかなりキツかったと思う。これ、すごく分かる。というか、分かりすぎて怖い。例えば、私はコーマック・マッカーシーが好きだ。『すべての美しい馬』なんて好きすぎて何回も読んでいる。おまけに英語を勉強しぃしぃ、あの難解な原文にも挑戦している。けれども、『すべての美しい馬』から始まる国境三部作も、『ブラッド・メリディアン』も『地と暴力の国(ノーカントリー・フォー・オールドマン)』も『チャイルド・オブ・ゴッド』も『ザ・ロード』も読んできた。なので、だいたい手の内は分かる。モチーフを変えてもテーマは変わらない。読後感も想像できる。だから、最後の2作とされる『ステラ・マリス』『通り過ぎゆく者』は、積んだままだ。「こんなものか」と思いたくないから。おそらく、積読山を本格的に崩すには、こうした自分でかけた呪い(幻想)を解呪していく覚悟が必要なんだろう。でも、そんな「見切る」ような読み方をしていったら、どれもこれも「大したことない」になってしまうのでは?それは山を崩すには効率的かもしれないが、本を楽しむというより、本を読む自分を評価するような読書になってしまうのでは?それでも、残るものはあるという。見切るとは「こいつはダメ」ということではなく、もうこれ以上読まなくてもいいということ。その作家なり分野の本質的な輝きを見せる本は手元に残しておく。フエンテスの『アウラ』やディレーニの『時は準宝石の螺旋のように』は保存してあるという。おそらくそれが、彼にとっての、エッセンシャルブックなのかもしれぬ。私の場合は何だろうか。それを見限ったら、私でなくなってしまう作品。マッカーシー『すべての美しい馬』やウィリアムズ『ストーナー』だろうか。開高健は全て隈なく読んだが、『オーパ!』だろうか。レイコフ、ベイトソン、ボルヘスは、新しく手を出すよりも再読したい(せねば)と考える。何が残るかと「見切る」ことによって、積読を解毒していく。そういう読書が、必要なのかもしれぬ。……とはいえ、彼が絶賛していたフエンテスの『アウラ』は手に入りそうなので、新たに積読山に入れるんだけどねw

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