2020/10/04
sites.google.com/view/yutanakase
新しいウェブサイトを作成してみた。しばらくはここと一緒に使う予定。グーグルサイトの編集自由度の低さはもどかしい時も多いが、文字を読み、写真を見るような目的であればそこまで問題が起きるわけでもない。
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2017/1/4(水)
年末(時には年始)に『みすず』の『読書アンケート』の原稿を書くのが恒例になっている。その年のあいだに読んだ本(別に新刊でなくてもよい)についてのおおよそ 800 字程度の紹介・感想を書く。それが書店に並ぶ『みすず』の 1, 2 月号に数多くの「文化人」の寄稿とともに掲載されるのだ。
で、今年も書いたわけだが、もっとも書きたい二つの作品について書いたところ、期せずして去年の寄稿の「つづき」的な文章になった。
というわけで、今年のをお読みいただく前に去年のをざっと読んでいただければと思う(去年の 1/27 の日記にも掲載したけど)。800 字程度という縛りのなかで、個人の体験をベースにしたインターネットの変遷論に埋め込んで二つの本を紹介するという無茶な試みでした。
「みすず」読書アンケート
2015 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)
(2) おかざき真里『阿・吽 1~3巻』(小学館)
ぼくにとって90年代初頭のインターネットは「掲示板の時代」だった。個性の強い主催者がそれぞれのスタイルの掲示板を運営し常連の論客が適度に開いた環境で多彩な議論を交わした。ぼく自身も東北大数学科の黒木玄さんの掲示板に出入りし多くを学び多くを語った。今も親交のある評論家・翻訳家(が副業)の山形浩生さんや文筆家・翻訳家のニキリンコさんと出会ったのもこの掲示板だ。
その頃よく見ていた掲示板の一つに面白い奴がいた。社会学の大学院生。短い(多くの場合くだらない)投稿が強い印象を与える。興味をもって彼の個人ページの文章を読んだ。内容はほとんど覚えていないが圧倒的な筆力から受けた驚きは忘れない。こんなすごい文章を書く奴がいるんだ。でも、これを読むのは一部の掲示板の常連だけだろう。天才的な文才の無駄使い・・
(1)は社会学者の岸政彦が聞き取りの現場で出会った断片的な物語を綴った書、「面白い奴」の近著だ。空き時間を紡ぐようにして一気に読んだ。「すぐ目の前に来たときに気付いたのだが、その老人は全裸だった。手に小さな風呂桶を持っていた。」うん。確かに彼の文章だ。小説のなかの本筋とは関係ないが書き込まれていて心に残る挿話だけを読むような快感。「解釈はしない」と宣言しながらも時には普遍化に流れる岸さんを見るのも一興だ。そしてなにより本書が話題の書となり彼の文章が広く読まれていることが素直にうれしい。
(2)は人気漫画家おかざき真里の連載中の作品。最澄と空海の物語である。未完の作品について語るのはフライングだろうが、漫画でこそ可能な表現で重厚な物語が綴られていく様は圧巻。絵も漫画というレベルを超えて美しく力強い。漫画から離れた大人にも自信を持って薦められる作品だ。
2016 年の今、ぼくにとって多くの人とネットで交流する場はツイッターに移っている。ツイッターでのぼくのアイコンは、なんと縁あって真里さんが描いてくれたぼくの似顔絵だ。巨大で流動的な人々の結びつきの中に140 字以内の短い投稿が次々と放流されていく環境には未だ馴染みきれないが、この混沌からどんな文化や出会いが生まれるか楽しみでもある。
さて、こうしてツイッターに話が移ったところで、一年後、今年の寄稿。
「みすず」読書アンケート
2016 年に読んだ本(新、旧を問わない)から五冊以内について感想を述べよ。
(1) 柞刈 湯葉『横浜駅 SF』(カドカワ BOOKS)
(2) 岸 政彦『ビニール傘』(『新潮』2016 年 9 月号)
横浜駅は「完成しない」のではなく「絶え間ない生成と分解を続ける定常状態こそが横浜駅の完成形であり、つまり横浜駅はひとつの生命体である」と何度言ったら
ツイッターは3億人以上が利用するインターネットのサービスだ。日々数億のツイート(百四十字以内のテクスト)が投稿される文字情報の混沌である。
ツイッターで「イスカリオテの湯葉」と名乗る生物学者と知り合った。軽い会話を交わす仲だが本名は知らない。冒頭は一昨年の正月の午後の彼のツイート。そして、十分後のツイートが続く。
西暦30XX年。度重なる工事の末にとうとう自己複製の能力を獲得した横浜駅はやがて本州を覆い尽くしていた。三浦半島でレジスタンス活動を続ける主人公は、謎の老人から託されたディスクを手に西へ向かう。「横浜駅16777216番出口(長野~岐阜県境付近)へ行け、そこに全ての答えがある」
「『横浜駅SF』が始まった。ぜひ最後まで!」という(ぼくを含む)周囲の声援の中、その日のうちに一連のツイートからなるアドリブの作品が完成。ネット上で爆発的な話題を呼んだ。それから二年弱の後、web小説を経て本格的なSF小説が単行本(1)として刊行された。
海へかえる正岡豊「冬の翼」連作評
近藤健一
同人誌『町』三号において服部真里子が正岡豊「冬の翼」の連作評を行っている。それに触発されてこの連作を読み直してみたのだが、思っていた以上に読み応えがあることに気付いた。そこで自分なりの評を行ってみたいと思う。
まず連作の全十一首を引いておく。出典は荻原裕幸編集『短歌ヴァーサス』六号誌上に収録された正岡豊『四月の魚』増補版である。元の作品にはないが、便宜上それぞれの歌に番号を振ってある。
冬の翼
夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
ぼくの求めたたったひとつを持ってきた冬のウェイトレスに拍手を
身体にひぐれは来ないさびしさのモーターボートが岬へ向かう
誰だいまぼくの寝顔に十二個の星をはりつけてゆきたるは
みずいろのつばさのうらをみせていたむしりとられるとはおもわずに
海は救命救急センターから来たる救急車運転手の帽子に
宇宙の野戦病院のナイチンゲール きっとあなたもいつかなるのだ
もうじっとしていられないミミズクはあれはさよならを言いにゆくのよ
めずらしく窓に硝子のあった日に砂糖を湯へとぼくは溶かした
さかなへんの字にしたしんだ休日の次の日街できみをみかけた
かがやきながらそしてかすかにうつむいて 海にざんぶとたおれこむまで
連作を通して一定のトーンが保たれていることが分かる。漠然としたさびしさ、あるいは服部の評を参考にすれば喪失の予感、ととりあえずは言えるであろう。このことを念頭に置きながら連作を読み込んでいく。
一首目、まばたきをする翼のイメージが美しいが、具体的な景はとりにくい。連作を通して季節は冬と考えられるが、冬になって南へ帰った翼がその地でまばたきをするということであろうか。しかし南に帰ってしまった翼を「冬の」と形容するのは少しおかしく、かといって帰る直前の時期を捉えたと考えるのもやや無理がある。
二首目、心から望んでいた願いをウェイトレスがかなえてくれたのであろう。そのことに対して感謝の拍手を贈っているのだが、どことなくさびしさが感じられる。おそらくそれはウェイトレスが職業であることによる。ドライな言い方をすればウェイトレスは仕事として注文をこなしているに過ぎないのだが、にもかかわらず感謝してみせなければならないところに「ぼく」のさびしさが存在する。
三首目、二句目までと三句目以降がそれぞれさびしさの喩になっている。四首目、気付いたときには既に犯人は逃げてしまっている。いたずらそのものは愉快な感じもするが、それによって引き立てられる喪失感がポイントであろう。五首目、比喩的に何らかの裏切りを示唆していると思われる。直接的な感情表現が避けられていることから静かな怒りのようなものも感じられるが、やはり身体あるいは心の平穏の喪失が主眼であろう。なお「つばさのうら」は四首目の「寝顔」に通じる。
六首目、五首目を受けての緊急事態ということだが、歌そのものの意味はとりにくい。七首目、病院という連想および職業のモチーフによって歌が続くが、やはり意味はとりにくい。八首目、語りを意識させる「もう」「あれは」「のよ」という言葉の効果で、服部の言う喪失の予感が胸に迫ってくる。しかしこれを誰が語っているのかははっきりしない。
九首目、日常の描写という今までとは雰囲気の異なる歌になっているが、溶けてしまうことによる喪失のイメージが提示されている。十首目、上の句は海に思いを馳せた休日ぐらいの意味であろうか。下の句は見かけたが話しかけなかったというさびしさについて述べている。十一首目、十首目から考えて「ぼく」が海に倒れ込むのであろう。しかし「うつむいて」「たおれこむ」という表現には違和感があり、上の句の意味は少しとりにくい。
ここで連作の構成について考えてみると、ポイントとなる歌があることに気付く。一首目と十一首目は最初と最後なのでポイントになるはずだとして、感情の出し方や表記法などから考えて五首目と八首目もポイントであろう。この二首に挟まれて病院関連の歌二首が並んでおり、また八首目と十一首目に挟まれて日常描写の歌二首が並んでいることから類推すると、二首目はポイントになる歌であって、三首目と四首目にはなんらかの関連があるのではないかと考えられる。一首目はこの構造から外れるが、表題の元となった歌なので役割が異なるのであろう。
さらに七首目の「あなた」と十首目の「きみ」は同じ人物を指すのではないかと考えてみると、俄然連作が立ち上がってくる。すなわち、この連作には「ぼく」以外に「きみ」がいて、二人の関係が常に背景として描かれているのである。六首目と七首目、あるいは九首目と十首目が「ぼく」と「きみ」に対応するのは見やすいし、八首目は「きみ」の語りと考えるのが自然である。このことを考慮しながら連作
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