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ある白人の男やもめの告白
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似非トーライ(ese - tori)
●10/16 10:15
2024-10-14裁かれたのは誰だったのか Joker: Folie 〓 Deuxhttps://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/以下、「Joker: Folie 〓 Deux」のネタバレを含みます。ジョーカーは存在するか?アーサー(ホアキン・フェニックス)の犯した5件の殺人に対する法廷劇。アーサーの凶行はテレビドラマ化されており、裁判所の周りにはそれを見たことで彼に惹かれた信奉者達が押し寄せる。裁判の争点は、アーサーに責任能力があるか・もうひとつの人格が存在するかということ。つまり「ジョーカーは存在するのか?」。音楽療法の場で出会う謎の女リー(レディ・ガガ)。彼女との出会いにより、アーサーは生きる希望を持つ・・・ということはセリフでなく歌で表現される。そう、本作品は多くのミュージカルシーンによって構成され、多くの心情は歌詞に乗せられている。今回アーサーの妄想シーンはほとんどがリーとともにいる場面。歌って踊って、二人で現実に抗ってみせる。裁判の途中でアーサーは突然、いるはずもないアーサーのもうひとつの人格をでっちあげることに必死な弁護士を解雇し、その後は自分自身で弁護を行うことに。リーをはじめ、信者たちに望まれたピエロのメイクで法廷に立つことで自らの狂気を立たせる。ここまでは「みんな」の望むこと。しかし終盤に、証言台にかつての同僚ゲイリーがつくシーンで、彼と会話を重ねるうちにアーサーは「誰も俺を見ていない」と憤る。法廷の中でも外でも、人々が関心を持っているのは5件の殺人を犯した殺人ピエロの方であって、アーサーではない。結局だれも自分に関心はないのだ。そしてアーサーはジョーカーになることを諦める。「ジョーカーはいない」ことを認める。リーやその他の傍聴席の信奉者たちは失望して席を立つ。裁判所の爆破によって外に出たアーサーは、「あの階段」で再会したリーに別れを告げられる。そしてそのあと、最後までアーサーはジョーカーになることはないまま、刑務所の中で刺殺される。救いのないラスト。スクリーンに自分が映っていた本作の評価が非常に悪いということは知っていた。見た後もそりゃそうなるだろうと納得した。観客が求めていたのはあの「ジョーカー」の続編であり、虐げられていたアーサーがジョーカーになって暴れる姿だったにも関わらず、本作でアーサーが暴力を振るうのは妄想シーンのみ。しかしちょっと待って欲しい。考えると、アーサーがジョーカーになりきらないまま終わる本作を見て失望するのは、ジョーカーを否定したアーサーに失望したあの傍聴席の人たちと、何が違うのか。テレビドラマを見て勝手にジョーカーに期待し、その期待を裏切られたと席を立ち裁判所から出ていったあの人たちは、前作を見てその続編に同じような展開を期待する観客自身の姿だった。あのシーンに映っていたのは自分自身だった。アーサー自身もまた、ジョーカーを求めてはいなかった。ジョーカーという存在を認めるわけにはいかなかった(認めたら自分自身が消失してしまう)。事実、裁判所の爆発のあと、逃亡を手助けしてくれる信者たちの手は早々に引き払い、自分の足で逃げ出した。彼らもまた、興味があるのはジョーカーであり、アーサー自身ではないのだから。ジョーカーと「ジョーカー」前作によってアンチヒーローとしての人気を得た(得てしまった)ジョーカーの姿は、作中でテレビドラマ化されていることでまた、この作中でのジョーカーの姿に重なる。映画の中でも外でも、ジョーカーは人々に好かれ、痛快に暴れることを勝手に期待されている。しかしアーサー自身も制作陣も、それを良しとしていない。たとえ他のDC作品との繋がりがなくなっても、辻褄が合わなくなっても、それよりジョーカーが神格化されることを防ぐことを優先し、ラストでアーサーはその生涯を終える。アーサーがアーサーとして死ねることだけでも、ハッピーエンドなのか。本作は法廷劇であり、その裁判はジョーカーの存在を否定する評決で終わる。裁かれていたのは、存在の有無を問われていたのは、アーサーのもうひとつの人格ジョーカーであり、それを神格化させた前作「ジョーカー」だった。hirotashi 2024-10-14 00:30 読者になる広告を非表示にするもっと読むコメントを書く裁かれたのは誰だったのか Joker: Folie 〓 Deux▼ ▶20242024 / 10

TOKYO巡礼歌
●10/11 13:24
2024-10-08文楽 10月地方公演『二人三番叟』『絵本太功記』『近頃河原の達引』神奈川県立青少年センター文楽[地方]公演 人形浄瑠璃 文楽秋の地方公演、横浜会場へ行った。昼の部は2本立て。1つ目、二人三番叟。人形はこなれた雰囲気。検非違使のほうの三番叟は、枝葉を落とし、洗練された雰囲気。無意識の部分も多分にあるだろうが、「踊り慣れている人物」というキャラクターが成立していた。玉勢さんは、これくらい落ち着いていると本当に上手いのだが……。首の左右振りがやや浅すぎるところがあったのが惜しい。本人の思っている以上に、客席から見ると振っているように見えない状態になってしまっているのだろうと思う。床の演奏はもう少しメリハリがついていて欲しかった。豊竹亘太夫、竹本碩太夫、豊竹薫太夫/鶴澤清公、鶴澤燕二郎、鶴澤清方三番叟[又平]=吉田文哉、三番叟[検非違使]=吉田玉勢昼の部2つ目、絵本太功記、夕顔棚の段、尼ケ崎の段。さつきの閑居に集う人々の、純粋で瑞々しい雰囲気が出ているのが良かった。さつき勘壽さん、操勘彌さん、十次郎玉佳さんの配役は、本公演に並ぶ豪華さ。この三人は描写が的確で、余分がなく、垢抜けている。操〈吉田勘彌〉には色香がある。操は人物造形にバックグラウンドやその深さがないのが難点の役だけど、勘彌さんが遣うと独特の佇まいが出て、ただの内室とは思えないところがある。この艶麗さをもたらしているのは、曲線をイメージさせる流れるようなモーションだろう。お辞儀する、振り向く、手を差し出すなどの基本的動作にしても、直裁的に下ろす、振る、突き出すのではなく、少し弧を描いたような動作になっている。下品に「クネクネ」させずとも色気をかもしだす表現に長けていると感じた。個々の動作が柔らかにつながっているのはとても音楽的。義太夫のミュージカル性をいかした動きになっているのも良い。ほかの人には真似できないだろう。老女方でいえば、和生さんも柔らかく美麗な遣い方をするが、和生さんは目線や手とかしらの関係など細かいところまで詰めきっているゆえに若干緊張をもたらしてくるところがある(だからこそ政岡や戸無瀬といった気高い性格の役が勤まるのだ)。が、勘彌さんは程よく抜け感があるので、こちらを緊張させてこない。これも独特のこなれた味わい。勘彌さんの場合、美学として手順を抜くとか、雑としての手抜きとはまた違うんだよね。抜け感としか言いようがないものがある。たまに「抜け感」の限界に挑戦しすぎていることもあるけど、今回はちょうどよかった。冒頭、操は揚帽子(角隠しみたいなやつ)を付けて登場する。そのかぶり位置が若干高めなのがなぜなのか気になった。確かに顔は見えやすいが、もう少し下めにしたほうが顔まわりのバランスに美しさが出るように思ったが、どうか。十次郎〈吉田玉佳〉は、幼さともいえる若さが全面に出た清楚な美少年。大変優美な姿で、「尼ケ崎」冒頭の憂いに沈むさまが似合っていた。昭和の少女漫画のようなキラキラ感、お菓子でできていそうな可憐さだった。十次郎は、肩衣姿、鎧姿、手負と場面ごとに強く変化をつける人が多いが、変化させること自体に気を取られてあまりやりすぎると、人格がばらける。そこをやりすぎず、少年らしいしなやかさを保ちつづけていたのも良かった。ただ、それとは別の話として、軍物語については、もう少し強いメリハリをつけて情感の高まりを表現したほうがいいと思う。控えめだったはずの十次郎が感情を表に出して父を気遣う姿を見たい。玉佳さんは、『妹背山』の久我之助もかなり良かったよね。美少年役は向いているんじゃないかな。以前、あるトークショーで「師匠の思い出は」と問われて「忘れてしまいましたぁ〜……。でも、師匠はすごい人で……すごい人やったんですぅ〜……」と、それこそすごいことを言っていたけど、やっぱり、玉佳さんは師匠をよく見ていたんだな。そして、ほどよく忘れたことによって(?)、師匠の湛えていた謹厳さが薄れ、玉佳さんらしいスイーツ性が入り混じって、こうなってるんだろうなと思った。光秀は、勘十郎さんにありがちな「かしらより先に右手から早く・強く動かしてしまい、身体の個々のパーツがバラバラに見える」ということがなく、自然な動きになっていた。いかにもなところだけ過剰に力んで芝居に凸凹ができるということもなく、いつになく落ち着いている。過剰に説明的、装飾的な演技もカットされていた。個人的には役の性根に対してこれくらいが適切だと感じた。しかし、姿勢がかなり不安な状態になっていた。座り姿勢の人形の位置がかなり下がってしまっている。勘十郎さんは2年半前の時点で、後半光秀を持ちきれなくなり、人形の位置が下がっていた。そこからさらに時が経過した今、冒頭からこうなってしまうことは想定はしていたが、見ていて辛くなった。ひざの曲がり角度が90度以下になっていたが、普通は110度以上まで上がって、太ももが伸びて足がすっと見える状態になるはず。現状だと、足遣いの腕の上に人形を乗せている状態だよね。人形がねじれて見えるのは、人形の尻が足遣いの腕につきすぎているせいで、胴が潰れているからでは。こうなっているのは勘十郎さんだけとは言わないけれど、一応得意としているはずの役がこれというのが悲しい。ただ、光秀が全然ダメだったかというと、そうではなかった。ぱっと見だと、上手く見える。なんなら、相当上手く見える。なぜならば、相当にちゃんとした左がついていたから。左手の動きにインパクトを持たせる型や、左が姿勢を左右するポーズは、かなりきっちり決まっていた。手を差し出す位置、タイミング、手のひらを向ける方向、座位立位に応じ全身を美しく見せるために差し出す位置コントロールが的確。特に、最後、陣羽織姿に着替えた久吉の出を見やって振り返り姿勢になる「石投げ」の見得は、左手を高く引き上げて全身を吊り伸ばすことで、通常では考えられないほど美しく決まっていた。勘十郎さんは芸風的に動きで見せるタイプなので、「姿勢が綺麗」ということは普段ありえない。そういった特質の主遣いに「美しい姿勢で型を決めること」を実現させる左遣いの実力に唸った。これらによって、従来の勘十郎さんの光秀よりも、相当に若返って見えていた。冒頭に書いた「身体の個々のパーツのバラバラさ」が抑えられていたのも、この左の人がかなり早めに次の動きの準備をしており、動きが速かったのもあるだろう(曲に合わせて遣っているがゆえに、たまに右手より早いのにはちょっと笑った)。風呂場にうまく槍先を突っ込めないなどのトラブルが起こりそうになった際の瞬間的な対応などを見ても、相当に慣れている人と思われる。以下は、あくまで推測であることをお断りしておく。この左は、通常、勘十郎さんの左に入ることはない人だろう。海外公演などに人を取られて普段左に入れている人がいないために、通常とは違う人を入れることになったのではないか。あえて書くが、これだけちゃんとした左遣いが勘十郎さんにつくことは通常ありえない。「いつもと違う人が左に入ったから変になっちゃいました」ではなく、「いつもと違う人を入れた故に見た目が劇的にアップしました」という状態になっていた。今回の左の人がつけられたのは、端的には、人手不足だと思う。そのときに、できる限り上手い人をつけるのは客への誠意として極めて順当なことだ。しかし、その裏には、たくさんの歪みが隠れている。興行的要請によって本質的には無理のある配役になっていること。勘十郎さんは以前、玉男さんを揶揄して「いつも玉佳さんを左に入れている、ほかの若手に勉強させていない」と言っていたが、自分は左を育成できたのかというと、そうではなかったこと。本来は、無理をさせてでも自分の弟子などの「若造」を左に入れて勉強させるべきだろうが、それができないこと。もはやこのレベルの人をつけないと、光秀を遣いきれないこと。よく言えば、体力がかなり低下しても、まともな左さえつけば大型の人形の役も見劣りすることなく勤められると証明できたのであるが、この左の人が勘十郎さんの左につくことは二度とないだろう。これらの歪みは本当はずっと前からあったが、限界にきたのだ。このようなことが起こる残酷さに、浄瑠璃の内容とは関係なく、涙が出た。(比喩とかじゃなくて本当に泣いた)人形は人形なのですぐ泣き止む。そのほかの黒衣の役では、操の足がかなり良かったことを特筆しておきたい。クドキに数回ある、上手を向いての立膝風ポーズ、脚の形、タイミングなど、かなり良かった。急激なポーズ転換を伴う役の場合、速さ等を考えず、ポーズを変え切ることだけに注意がいってしまって、なんでもいいから思いっきりやっている足遣いも多い。けど、今回の操の足遣いは落ち着いて遣っており、操らしいたおやかさが保たれていた。勘彌さんのトーンに合っているのも良い。ほかの人の操でやったら多少やりすぎになりそうなところ、勘彌さんは感情が急激に盛り上がりつつ、カーブを描いた動きを多用する遣い方なので、合っていた。冒頭、上手袖で若手太夫が叫ぶ「ナンミョーホーレンゲーキョ」の人数が少なくて、寂しかった。ツメ人形たちの中にサボってるやつおるなって感じになっていた。寂しいといえば、段切、加藤正清が出てこなくて、笑ってしまった。確かにあいつ、ひとことも喋らずポーズ決めるだけだけど、お迎えがツメ人形3人だけはしょぼすぎる。でかい人形が来るから迫力と久吉の格式が出る。冒頭の妙見講ツメ人形はちゃんと4人いたのに〜。人手の問題なのか、かしら等の取り回しの問題なのかわからないけど、なんとか調整して出してくれいと思った。そういえば、妙見講ツメ人形のうち、一人、異様に雑なヤツがいるのが気になった。湯呑みを持つ→茶を飲むのがあんなに下手になることってありえるんだ。ツメ人形は動きの「適当さ」が魅力の役ではあるけど、「適当」と「雑」は違うからなあ。夕顔棚の段豊竹希太夫/鶴澤清馗尼ケ崎の段前=豊竹呂勢太夫/鶴澤清治切=豊竹呂太夫 改め 豊竹若太夫/鶴澤清介母さつき=桐竹勘壽、妻操=吉田勘彌、嫁初菊=吉田一輔、旅僧 実は 真柴久吉=吉田玉輝、武智光秀=桐竹勘十郎、武智十次郎=吉田玉佳夜の部、近頃河原の達引、四条河原の段、堀川猿廻しの段。こちらも手堅い配役によって、普通の人々の普通の生活が優しく描き出されており、曲の持つ滋味深い佇まいがよく出ていた。要所要所が的確に決まっている。「堀川猿廻し」は、5月東京公演では本当に信じられないくらい終わっていたが、今回は超絶まともだった。現在の本公演では逆にこうはできない豪華配役によるものだろう。手堅すぎて、「四条河原」に至っては、本公演あわせても自分が観た中でベストの出来になっていた。横淵官左衛門に勘市さん、伝兵衛に玉志さん、このレベルの人がこの役につくことは本公演だとまずありえない。「四条河原」って、本来こういう演技をすべきだったんだね……、と素で思った。こういう、誰もが「どうでもいい」と思っている段で、一挙一動をきちんと演技できるというのは、この人たち、相当にメンタルが強いんだろうな。結局、どの段も、やる人次第なんだな。勘市さんは二度と官左衛門やらないだろうけど、今後ほかの人が配役されたとしても、これくらい前向きにやって欲しいよなぁ。それにしても、「四条河原」の伝兵衛の左、随分贅沢な人がついてないか。玉志さんの伝兵衛は、品のある繊細な美青年だった。「四条河原」も良かったが、「堀川猿廻し」の冒頭、手拭いで頬かむりをしてしずしずと下手小幕から出てくる姿の美しさは驚異的だった。頬かむりをかぶった美男子役はほかにもいるが、治兵衛は状況や性根からするとここまで美しく表現することは出来ないので、伝兵衛ならではの突き抜けた表現になっている。かなり上品な雰囲気、井筒屋の身代がどれほどのものかは劇中ではわからないが、京都で5本の指のうちに入るような超おぼっちゃまですか状態になっていた。グレードの高い貴公子感がありながら、ちゃんと町人に落ちていた。「すしや」の維盛などとは明確に遣い分けているのは上手い。大袈裟な振りを徹底して抑え、微細な顔の震え、うつむきなどの表情、手の動きで見せていく遣い方で、繊細なかしらの遣い方からくる「わたし顔が完璧に整ってます」度がすさまじく、「堀川猿廻し」でおしゅんに話しかけるくだりなど、夢女夢男夢ツメ人形が涌きそうだった。人形としての容姿を最大限にいかした美麗さと透明感、清潔感。初代玉男の若男はこんな感じだったんだろうな。師匠が亡くなって18年、その芸を引き継いだ人形をいま見られることに、なんか、感動してした。ただ、おしゅんのことを好きそうかどうかでいうと、踏み込みが足りない。ぼくはみんなのアイドルだから特定の子とは付き合えないよ感がある。このような俗世間と隔絶した高潔性は玉志さんの最大の魅力であるのだが、それによって「おしゅんのお兄ちゃん」みたいになっていた。品がありすぎ、所作が優しすぎるのが、「恋愛」感からやや離れてる。もうちょっと急に強く抱きしめる等があったほうがいいのだろう。玉志さんの世話物の若男といえば、『大経師昔暦』の茂兵衛、『傾城恋飛脚』の忠兵衛も良かったな。時代物に配役されがちだけど、今後は徳兵衛など初代玉男師匠が得意とした世話物の若男役も見てみたい。と思った。玉也さんはやはり上手い。与次郎を場面に応じて的確に遣っている。おしゅんとママが話している脇で、与次郎が今日の稼ぎを数え、夕食をとる場面がある。夕食のくだりは、細かく作り込んだ演技をする人が多い。お弁当箱やおひつの中からおにぎり状のご飯の塊を出して、それをかきこむ演技をするなど、小道具を多用して、見た目もにぎやかに演じられる。しかし、今回はおにぎりを出さず、「お弁当箱から梅干しを出す」「おひつから軽くよそう動きをする」「時々たくあんや梅干しをかじる」だけになっていた。与次郎は眉を動かせるタイプのかしらなので、ここでこれみよがしに眉を下げる演技をする人が多いのだが、眉の表情はほとんどつけられていない。首をかしげる等の表情出しもせず、手の動きも小さめに、淡々と食べるのみ。これを「よく見て」しまうと、与次郎が本当にご飯を食べたかどうかわからない。自分の場合、最初かなり凝視していたため、「もしかして、与次郎は家族により多く食べさせるために自分は夕ご飯を食べるのを控えているけど、食べている姿を見せないとママやおしゅんが心配するので、空の茶碗だけ持ってかきこんでるフリをしてるのかな」と思っていた。が、しばらく見ていて、ああ、これは意図的に演技の見え方を曖昧にしているんだなと思った。ここで、おしゅんとママが主役であるにもかかわらず、これみよがしに与次郎を遣ってしまう人がいる。しかし、玉也さんは与次郎の動きをややぼかし、おしゅんとママに観客のフォーカスがいくようにしているのだ。先日、『生写朝顔話』笑い薬の段の感想に書いた通り、玉也さんは、「なにをやっているか」を大変明瞭に遣う人だ。そんななか、与次郎の夕食の支度をぼかす遣い方をするというのは、非常に上手い。ほかの場面でははっきり遣っているので、落差が出て自然と目がいかなくなる。こういうやりかたがあったのかと思った。また、猿廻しのくだり。ここでは、「夕食」とは逆に、与次郎の動きが単純化してしまう場合が多い。与次郎はおさるリードを持ったまま、床に棒をパシパシ打つ程度であることがほとんど。おさるに注目させる意味もあるだろうが、実際にはおさるもその小ささや造形の単調さゆえに表現の幅に限界があり、客としては途中で飽きてくる。しかし、今回は与次郎に動きをつけて、時々リードをたぐる等の変化をもたせていた。リードを少し取り直すとか、両手持ちにするとかのちょっとしたことではあるが、おさるとの関係性に変化が出て、意外と効果的なのだ。リードは2本あるし、1m以上の長さがあるので、たしかに舞台上の要素としては「でかい」。この紐の状態如何が意外と視覚効果を産んでいるのだなと感じた。与次郎を「地蔵」化させず、かといっておさるより目立たせず、おさるを引き立てる遣い方だった。このあたりの塩梅は、「さすが玉也」としか言いようがない。センスあるわ。本当、上手い人だと思う。清十郎さんのおしゅんは、うら寂しげな佇まいがあいかわらず良い。若い女の子感とうらぶれ感を両立させつつ、浄瑠璃の女性登場人物らしい透明感を兼ね備えているのが個性的。おしゅんは今回もまた簪を戸口に挿していなかった。清十郎さんはやらないということなのか、それとも、床の交代タイミングの兼ね合いなのか。たしかに浄瑠璃の文章では「たたずむ軒は見覚えの『確かにこゝ』」としか言っておらず、簪を見て気づいたとはなっていない。ただ、伝兵衛とおしゅんは遊郭の客と遊女の関係であって、これまでは店でしか会っていないのでは。なぜここがおしゅんの実家だとわかったのかが不自然なので、彼にわかる目印となるものがなくては意味が通らない=それが簪を戸口に挿すという型として伝承されてきたのだと思うが……。簑一郎さんママは、穏やかな品のある佇まいで、かなり良かった。静かめの雰囲気が「さすが与次郎やおしゅんみたいないい子を産み育てたママ」感があった。個人的には、節々でもうちょっと出しゃばってもいいかなと思う。最後の猿廻しのくだりは、平成初期の藤子不二雄アニメのエンディングみたいだった。なんか、のどか。おさるが本公演のように妙にテキパキしておらず、本物の動物みたいな動きだった。多少は与次郎の指示を聞いてるけど、本人(本猿)の意思で動いてまーす。自分のペースで生きてまーす。という感じのまったりムーブで、新味だった。私は動物が好きで、その理由は奴らは好き勝手に生きているからなのだが、そういう好き勝手に生きている動物を見て癒される感じがあって、良かった。ただ、全体ののどか感自体は、三味線に締まりがないためやや間が抜けた印象になっているのが最大の理由だろう。意図的にのどかな演奏をしているとするにはちょっと詰めが足りないと思う。段切は、「お初」のほうのおさるが伝兵衛・おしゅんについていかない演出になっていた。伝兵衛は、ほかの人形よりはるかに早く決まってずっとじっとしていたのが、玉志〜って感じだった。(ほかの人形は役柄もあって、全員、幕を引き終わるまで身を震わせて泣く演技をする)これまでもしばしば書いてきたが、私は、音韻(発音)に興味がある。義太夫には、近世上方特有にみられる発音を残しているものがある。「観音」を「カンノン」ではなく、「クヮンノン」と発音するなどのそれだ。ただ、義太夫は発音の伝承を重視しないため、次第に発音が現代化してきているという。古い録音では前近代の発音で語られているものも、現代に近づいてくるにつれて前近代の発音ではなく、現代の発音になっていく場合が多い。若い太夫ではこの手の前近代的な発音を一切しない人もいるが、年配の太夫や、研究熱心な人はやっている。今回注目したのは、「猿廻し」のママのクドキ。おしゅんの伝兵衛に寄せるまごころを聞いたママが、「親の心といふものは人間はおろか鳥類畜類でも子の可愛いに変はりはない」と嘆くくだりがある。このうち、「人間はおろか」の部分、現代標準語だと「ニンゲンワ」だが、津太夫の演奏の録音を聞くと、「ニンゲンナ」と発音している。これは昔あった「連声」という音韻の一種で、津太夫はその名残があると言える。今回、この部分に、津太夫の弟子である錣さんが配役された。錣さんはこの部分を「ニンゲンナ」の連声で発音していた。といっても、津太夫ほど明確な「ナ」ではなく、鼻濁音の「ガ」(カ゚)に接近したような発音だった。気をつけないと「特殊な発音で語っている」とは気づかないレベルだが、「ワ」ではないのは確実。錣さんはこれ以外にも、先に例として挙げた「観音様 クヮンノンサマ」(壷坂のお里のクドキ)や「名画 メイグヮ」(十種香の八重垣姫のクドキ)など、古い発音を残した語りをする場合が多い。どういう考えでそうされているのか、興味を持った。「前」の太夫は、雑すぎないか。なぜこれでいいと思っているのだろう。客が気づかないとでも思っているのか、気付かれてもいいから手を抜きたいのか。逆に、手は抜いていない、これが全力でありベストなのだと言い出したら、より一層深刻な問題がある。手抜きするなら、客にわからないようにやって欲しい。義太夫四条河原の段伝兵衛 豊竹睦太夫、官左衛門 竹本小住太夫、勘蔵 竹本聖太夫、久八 竹本碩太夫/野澤勝平堀川猿廻しの段前=[切]竹本千歳太夫/豊澤富助、ツレ 鶴澤燕二郎後=[切]竹本錣太夫/竹澤宗助、ツレ 鶴澤清公人形横渕官左衛門=吉田勘市、仲買勘蔵=桐竹亀次、井筒屋伝兵衛=吉田玉志、廻しの久八=吉田玉翔、稽古娘おつる=桐竹勘次郎、与次郎の母=吉田簑一郎、猿廻し与次郎=吉田玉也、娘おしゅん=豊松清十郎「尼ケ崎」は瑞々しさ、「猿廻し」は滋味深さが魅力的で、どちらもいまの文楽のおもしろさが析出した、とても充実した舞台になっていた。以前は、地方公演は「人手半減だから配役がひなびた感じにはなっちゃうけど、逆に珍しい役がついたりして、それはそれで面白い」という印象だった。それが今や、地方公演のほうが確実性の高い安牌配役をつけるから、結果的に上演クオリティがまともという状態になってしまっている。地方公演を見て「配役が豪華! しっかり見応え手応えのある舞台!」と思う日が来るとは思わなかった。この公演単体で見ると「レベル高かったねー!」と言えるけど、文楽全体としては、もはや破綻している。役が求める能力を満たしていない人を重要な役からできるだけ除外して配役しているからクオリティが上がって見えるに過ぎない。中間層がほかの公演に取られて抜けているから結果的に面白いとか、おかしい。こんなこと、あと3年ももたない。不健全すぎる。今回、解説係が刷新され、昼=聖太夫さん、夜=薫太夫さんが担当されていた。おふたりは、自分で考えたのであろうことを話されていた。いまにふさわしい切り口、言葉選びが工夫されていると感じた。どう話したらわかりやすく伝わるんだろうということを自分なりに考えて、師匠や先輩に相談しつつ、準備したんやろうね。誰に対して何を伝えたいかが整理されていて、原稿読んでる状態の鑑賞教室よりずっとわかりやすかった。おふたりとも、ガチガチに緊張して目がいんでるツメ人形状態になりながら話されていたが、「人に伝える」ことを大切にして、意識した話し方だったのがとても良かった。休憩時間のお手洗いの列でも好評の声が聞こえてきた。解説はあくまで一方的に喋るだけだが、生の舞台である限り、観客とのコミュニケーションを意識しないと、解説リーフや動画QRでも配っとけばいいって話になる。自信をもって、これからも「自分がなにを伝えたいか」を大切にして、頑張って欲しい。それはそうと、さとちゃんは、Gマークくん(字幕表示装置)のことを「棒」と言っていた。「棒……? 棒ですかね……?」と自分でも疑問を覚えていた。薫さんは、解説中は明治時代の弁士風(?)の喋りにしていたが、Gマークくんに話しかけるときだけ、突然普通の喋り方に戻っていた。素直に生きている感じがした。人形の若手で、演技が間違っている人がいた。性根がどうちゃらとか、決まった型ができていないとか、多少タイミングがおかしいとかではなく、初歩的な話として、物理的におかしい動きをしている。師匠はどういう指導をしているのか。一緒に舞台に出ている先輩たちも、なぜ誰も言ってあげないのだろう。悲しくなる。ただ、「若手」といっても「本当に若い」わけではないので、自己責任なのかもしれない。こんな瑣末な間違いに気がつかない、気をつけて演技ができないのは、これまで「勉強」してこなかった結果なのだろう。そもそも、「勉強」がなにかということをわかっていない、教わっていないのだと思う。本当に残酷だと思った。昼の部解説『二人三番叟(ににんさんばそう)』『絵本太功記(えほんたいこうき)』夕顔棚の段、尼ヶ崎の段夜の部解説『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)』四条河原の段、堀川猿回しの段https://www.pref.kanagawa.jp/docs/yi4/dentougeinou/bunraku2024.html人形部*1=吉田玉誉(このレベルのお助けお兄さんが出現すること、あるんだ……)、吉田玉彦、吉田玉路、吉田和馬、吉田簑悠、桐竹勘昇、吉田和登*1:清十郎ブログ情報 https://seijuro5th.blog.fc2.com/blog-entry-1214.htmlyomota258 2024-10-08 21:28 読者になる

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