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おとなりアンテナ | おすすめページ

  1. 2024/12/25 23:35:43 偽日記@はてな含むアンテナおとなりページ

    2024-12-15
    2024-12-15
    ⚫︎メモ。ピタゴラス音律とか、純正律とか言われているものについての解説はいろいろあるけど、下の動画を観て初めてわかったような気になれた。メロディとハーモニーは、本来いつも喧嘩しているのではないかという指摘はとても面白かった。
    結局、ややこしかったり難しかったりするところがあるとしても、そのややこしいところまで含めてきちんと説明してもらえるのが最もわかりやすいのだと思う。変にわかりやすくしようとすると、重要なところがモヤっとしたままだったりすることが多い。
    ・【音楽理論】複雑すぎて笑える「音律」の話 ~ 夢を追った結果サイアクの妥協点にゴール‼ どうしてこうなった? 音楽が抱える根本的矛盾とは
    https://www.youtube.com/watch?v=zdwP7Mj7OsE
    furuyatoshihiro 2024-12-15 00:00 読者になる
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    2024-12-14
    2024-12-14
    ⚫︎マティスの「ピアノのレッスン」(1916年)。この絵にあるのはまず、空間の虚実反転だろう。描かれているのは、ピアノと、その向こうの人物。手前に彫刻。そして、背後に壁と窓(直線的な窓枠と渦巻くフェンス)。そして、ピアノの後ろの壁には大型の絵がかけられている。リアルな部分は、ピアノの上面以外は、ほぼ平面的に処理されている(しかし、窓枠が微妙に立体的なのが、実はこの絵の最大のポイントなのだが、それは後述する)。マネの「アトリエでの昼食」と同様に、モノと床との設置面は描かれない(そもそも床が見えない)。ゆえに、何とも重なっていない、画面向かって左下の彫刻の「位置(他のモノたちとの前後関係)」がわからない(不確定)。
    しかし、背後にかかっている絵の中には、床が描かれ、床の上には立体的な椅子があり、立体的な人物が座っている。そして、椅子の手前には肌色の家具のようなものが置かれている。つまり、家具、床、椅子と人物、さらにその奥という前後関係が描かれ、絵の中には明確に奥行きがある。
    つまり、リアルな空間は平面的で、平面的であるはずの絵のフレーム内が奥行きを感じるように描かれている。
    絵の中の奥行きは、絵の外にあるはずの、ピアノ、窓枠、黒い譜面台、人物というモノたちとの連続性を感じさせることで、現実空間に介入する。ピアノの上面の赤(ピアノの上面との設置面が見えるメトロノームと鈴(というかベル ? )の位置関係が、現実空間内でほぼ唯一の奥行き感を生んでいる)、窓枠の下の方、譜面台の黒、人物の頭部というリアル世界から、ヴァーチャルな床、家具、椅子へ向かって、画面の中央下から向かって右上へと傾斜するようなパースペクティブ的な傾きを感じさせ、あたかも、ピアノの上面から絵の奥へと、奥行きがあるかのような感覚が生じる。この、リアルとバーチャルを貫通して空間のイリュージョンを生む疑似的遠近法は、「アトリエでの昼食」の画面左側の、青年、女性、壺の関係を想起させる(マネの女性と壺は一応は ? リアルであってヴァーチャルではないが)。
    だからこの絵は、向かって右側の、リアルからヴァーチャルへと連なっている偽の奥行きのある領域と、左側の、窓と壁、そして位置の確定できない彫刻のある平面的な領域との二つに、まずは分けることができる。
    そして、この二つの領域を媒介しつつ、この絵の空間の特異性というか、空間を活性化し、ぴっと背筋が伸びるような緊張感を形作っているのが、中央からやや向かって右寄りにある、壁とも、絵の内部ともつかない、他よりやや明るいブルーグレーの縦長の色の帯と、部屋の内側へと向かって開いている直線的な窓枠だろう。
    まず、明るいグレーの色の帯の形と面積とが、おそらく画面の八割以上を占めるであろう灰色の広がりと絶妙のバランスで釣り合うことで、この絵が現す感覚を生き生きと活性化している。もちろんそこには、緑、赤、黒、肌色(≒焦茶色)部分の、面積と分散的配置も密接に干渉しているわけだが。
    それだけでも充分に魅力的なのだが、何よりもこの絵をすごいものにしているのは、部屋の内側へと向かって開いた窓枠が作る、なんとも絶妙な空間(奥行き)なのだと思われる。
    この細い、明るいプルーグレーの窓枠は、画面上部では、ほとんど背景の灰色と溶け込んでおり、平面的に見える。しかし、下部になり、ピアノに近づくにつれて、明らかに、壁の位置、あるいはフエンスの位置から、手前側に向かって突き出してくるような幅が感じられる表現になってくる。明度が上がり、背景のフェンスの横軸も窓枠近くは暗くなっているし、上下二つある窓枠の水平部分の下の方は、上に比べて少し斜め下がってパースペクティブが強調され、奥がブルーグレーなのに対し、手前側は明確に白く明るくなっている。
    (向かって左側の窓枠は、背景の壁よりも暗いブルーグレーで壁よりもむしろ沈んで見え、右の窓枠はそれとの対比でより前へ出る。)
    これによって(フェンスと窓枠とピアノとの関係によって)、、背後の壁とピアノとの間にほんのわずかな、しかしかなり生々しい三次元的な空間(幅)のイリュージョンが生まれる(この生々しさは、絵の中の奥行きとは現れ方が異なる)。
    下手をすると、この画面空間全体を破綻させてしまいかねない、画面空間の統べる秩序からすれば異質である、この部分の生じる、このわずかな「三次元的な幅のイリュージョン」が、この作品を驚くべき傑作にしていると思う。試しに、この部分を隠して観てみると、全体がかなりべたっと平板になる。
    (左下にある「位置の確定しない彫刻」も、ここだけ異質でかなりやばいのだが。)
    ↓この白い囲みの部分の作る空間=厚み。
    furuyatoshihiro 2024-12-14 00:00 読者になる
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    2024-12-13
    2024-12-13
    ⚫︎マネの「アトリエでの昼食」(1868年)の特徴は、まず、遠近法的に空間を表現するパースを感じさせるものがほぼ存在しないということ。唯一、テーブルの角がちよっとだけのぞいていて、奥に向かって傾いているが、テーブルクロスの色と、その後ろに立っている女性の着ている服の色がとても近いためにあまり目立たない(手前の青年、後ろの女性、鉢植えという、画面向かって左側にある三つのモノが、徐々に小さくなっていくことで横倒しの三角形を作っていて、それが疑似的な遠近法的効果を作ってはいるが、それは「正しい遠近法」ではない)。さらに、この絵のフレームの中には地面(床)が存在せず、描かれているすべて、3人の人物、兜や剣が置かれた椅子、テーブル、壁際にある鉢植えの置かれた台の、どれもが床との接地面が描かれない(後ろの女性の足元はフレーム内に収まりそうな感じだが、意図的に隠されている)。ゆえに人や物たちの存在する空間がはっきりしないで(計測可能な三次元空間ではない)、ふわふわしたままだ。
    空間は主に、モノとモノとの「重なり」によって「前後関係」として示され、「深さ」の感覚が希薄だ。
    「アトリエでの昼食」というタイトルだが、この絵には、アトリエ感も昼食感も希薄だ。確かに、テーブルの上には食べ物が並んでいるが、どの人物も食べ物(食べる行為)に関心を持っているようには見えない。というか、この絵に描かれているものは、人も物も、それぞれの関係が希薄で、「一つの場面」を作っているようには思われない。食卓の椅子の上に兜や剣が置かれているのも不自然だ。別の場所から切り取られてきた写真を貼り合わせたみたいな無関係さを感じる。3人の人物は皆無表情だが、それぞれが異なる表情で無表情であるように見える。
    空間表現としても、場面的(物語的)表現としても、それぞれの関係が希薄で、すべてを統べる共通性(基底座標)が見当たらない。
    さらに特徴的なのが、手前の青年の着ているジャケットが、真っ黒のほぼ平面的なベタ塗りで、それが画面の中心部で大きな面積を占めている。マネ以前の画家でも、肖像画などで、黒い服がほぼベタ塗りの黒で表され、画面を引き締める効果を作っていることはあるが、ここまで大胆にベタの黒塗りが前面にあることはないだろう。また、手前の青年のジャケットと、中間にいる髭とたばこの男の描写が主に平面的に処理されているのに対し、後ろの女性は陰影によって膨らみを強調する描写になっている。
    (女性の膨らみと、椅子の座面、テーブルの幅が、この画面に、かろうじて薄い「深さ」を出現させている。平面的な重なりの中に、何層かのズレた「薄い深さ」が無理に差し込まれることで空間化されている感じ。)
    画面中で最も明るく見えるのは、最も後ろにあるように見える鉢の白で、この明るさが手前の黒いベタ塗りの強さと拮抗している(青年の襟元の白も効いている)。
    後ろに立つ女性の着ている服と、テーブルにかかるテーブルクロスは、明度は高いが彩度が低いグレーであり、その燻みに対してきっぱりしたベタ塗りの黒の強さが対比的に際立つことで、後ろのグレーよりもむしろ「黒」の方が明るい色であるかのように見えてくる。この明るい黒が、後ろにはあ鉢や、襟元の白と拮抗する。
    このようなマネの空間表現と、その下に示したマティスの空間表現とは、見かけほどには遠くない(マティスの画像はMOMAのウェブサイトから)。
    furuyatoshihiro 2024-12-13 00:00 読者になる
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    2024-12-12
    2024-12-12
    ⚫︎まったく今更という感じだが、最近ますます、マネの偉大さを感じている。あくまで、サロンに入選する伝統的な画家であることを望み、自分は革命家になりたいわけではないと発言しながらも、ルネサンス以降の絵画を強く規定していた「遠近法」と「陰影法による肉付け」によって事物や空間を表象するやり方を、徹底して廃棄して絵を成立させることのできた最初の画家であり、一つのフレームの中に統合された一つの場を作り出すという価値観をも廃棄し、主題的にも、伝統的・歴史的主題と、社会的、政治的主題と、日常的だったり卑近だったりスキャンダラスだったりする主題とを同列に扱うということを大胆に行なった。マネは、セザンヌと並んで近代絵画で最も革新的・革命的な画家たと言っていいと思う。マネの中には、少なくとも20世紀半ばくらいまで絵画の展開の可能性のほとんどがすでに内包されているし、マネ(+セザンヌ)の存在が、19世紀から20世紀中頃までの絵画の方向性を決定してしまったとさえ言えるだろう。
    もちろんそこには、ベラスケスやゴヤ、あるいは浮世絵などからの影響も見られるだろう。だが、それらの影響を別の次元にまで発展させた。
    (たとえば、マティスはセザンヌをしきりに礼賛するが、実はマティスは、セザンヌから得たものよりも、マネから得たものの方が大きいのではないかと、最近では思う。)
    (セザンヌは、マネとはまったく違った在り方で、西洋近代絵画の中の異様な特異点で、ぼく個人としては、マネ派であるよりはずっとセザンヌ派なのだが。)
    とはいえ、マネの実現した視覚芸術における革新的なものは、現在ではほとんど(それとは意識されないままで)共有財産となっていて、たとえばマンガやイラストを描く人ようなにも普通に使われている。だからこそ凄いのだが、しかし、だからこそその凄さは、現時点ではなかなか見えにくい。マネの絵について、「サロン」がなぜそんなにも強い拒否反応を示したのかという理由(感覚)も、今からだとなかなか見えにくい。
    (ぼく自身、マネの凄さを感じられるようになるまでずいぶん時間がかかった。)
    マネにおいては、絵画を構成する様々な要素は皆等価であり(たとえば、手法と主題という次元の異なるものでさえも等価であり)、それらはどのようにも組み合わせ可能で、しかもその構築にこれといった統一性は求められない。だからマネの絵には「これこそがマネだ」というわかりやすいスタイルはない。マネの絵には、根からの切断があり、そこからくる軽やかな自由度がある。それは同時に、軽薄さでもあり、シリアスさの無さ、でもある(対してセザンヌは、耐え難いほど重たすぎるしシリアスすぎる)。しかし、だからこそ「批評性」というようなものを積極的に含ませることも可能になる。
    マネの絵を形作っている、諸要素の構成のあり方には、今もなお新鮮で刺激的であり続けるものが多くある。
    (下の絵は、1868年の「アトリエでの昼食」。画像はWikipediaから。こんな奇妙な絵があるのか、と思う。)
    https://en.wikipedia.org/wiki/Luncheon_in_the_Studio
    furuyatoshihiro 2024-12-12 00:00 読者になる
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    2024-12-15
    2024-12-14
    2024-12-13
    2024-12-12

  2. 2024/12/25 12:39:48 一首鑑賞 含むアンテナおとなりページ

    投稿者 日高堯子投稿日: 2024年12月25日2024年11月28日独り家やに独り餅つく母はゐてわつしよいわつしよいこの世が白しにコメント
    独り家やに独り餅つく母はゐてわつしよいわつしよいこの世が白し
    『太陽の壺』川野里子
    独り暮らしの母を娘は気にかけている。母は気丈に独りで正月用の「餅」をついているという。餅つきといえば、昔は家族ぐるみの一大イベントであった。だが、この半世紀、家族の形態も大きく変わったが、餅つきの方法もまた変わった。いまや餅はスーパーマーケットでいつでも買えるものとなり、また家庭用の餅つき機などもあるので、「独り家」の「母」も「独り餅」をつく楽しみはできるのである。といっても淋しさはぬぐいがたく、離れ住む娘は遠くから「わつしよいわつしよい」と掛け声をかけているのだろう。いまの時代の家族の形と、暮らしの中の行事の在り方を見据えた「わつしよいわつしよい」の明るさと、もの哀しさ。作者はそれをまた、「この世が白し」と別の言葉であらわしているが、この「白し」という多義性のある表現がみごとにはまっているようだ。自由なのか不自由なのか、便利なのか不便なのか、そんな現代という時代を「白」という色で見せているのである。二〇〇二年刊行。
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    独り家やに独り餅つく母はゐてわつしよいわつしよいこの世が白し
    投稿者: 日高堯子
    2024年12月25日

  3. 2024/12/18 16:33:47 gojo | gojo’s含むアンテナおとなりページ

    『チネチッタで会いましょう』
    どんな映画かまったく知らずに、ナンニ・モレッティ監督『チネチッタで会いましょう』を見てみたら、こんなに楽しい映画だなんて。モレッティさん、実年齢に対してビジュアルもだいぶ若く見えるけど、撮る映画も若々しいというか自由とい…
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    『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』
    96年生まれ宮城県石巻市出身の佐藤そのみ監督が2019年に大学の友人や地元の友だちの協力を得て石巻市大川地区で撮影したとうふたつの映画、『春をかさねて』『あなたの瞳に話せたら』(19年)を鑑賞。びっくりするくらい良かった…
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  4. 2024/10/24 00:07:55 Les jardins suspendus de Babylone含むアンテナおとなりページ

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  5. 2024/03/28 09:03:34 わたしのひみつのせいかつ含むアンテナおとなりページ

    hystericgrammarsdiaryの日記
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  6. 2024/01/27 03:08:23 雨宮まみの「弟よ!」含むアンテナおとなりページ

    mamiamamiya 2012-04-13 00:00 読者になる
    mamiamamiya 2011-12-08 00:00 読者になる
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    mamiamamiya 2011-11-16 00:00 読者になる
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  7. 2021/03/09 13:27:13 The Good Life is out there, somewhere含むアンテナおとなりページ

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  8. 2021/02/02 07:33:47 帰ってきたハナログ含むアンテナおとなりページ

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  9. 2021/02/02 05:13:01 toomuchofnothing含むアンテナおとなりページ

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  10. 2021/02/02 03:52:24 記号とか事件。含むアンテナおとなりページ

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  11. 2021/02/02 02:48:04 真魚八重子 アヌトパンナ・アニルッダ含むアンテナおとなりページ

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