2025-01-31
2025-01-31
⚫︎『屍人荘の殺人』(今村昌弘)を読んだ(1月28日の日記を参照されたい)。
うーん。面白くないことはないのだが、謎解きの部分を読むと、やや引いてしまうというか、空虚な気持ちになる。設定も面白いし(『がっこうぐらし』みたいだ)、一つ一つ事件が起きていく過程や、状況が煮詰まっていく展開もとても面白い。そして、「謎」が筋の通った形で解かれていくのも、ああ、なるほどと感心させられる。
ただし、起きていることの面白さ(フィクションとしての充実)に比べて、「謎」が軽すぎるというか、見合っていないという感じがどうしてもある。トリックが安易だとか、途中でネタが割れてしまうとか、そういうことではない。それらは充分に練られていると思う。ただ、なんと言ったらいいのか。
ミステリは、基本として「人間を描く」ものではない。登場人物は、識別可能な記号であり、識別可能な特徴と同一性が確保されていさえすれば、とりあえずは良い。下の写真はこの本にある登場人物一覧なのだが、ここにそれが端的に表現されている。フィクション上の重要なプレーヤーである(探偵やワトソン役以外の)女性たちの特徴が、「進藤の恋人」「神経質な性格」「男勝りな性格」「大人しい性格」「ギャル風の外見」と、あまりにざっくり書かれている。これを見て、すごいなと笑ってしまった。「進藤の恋人」というのは人物の関係性の説明だから人物紹介として普通だが、それ以外は、「青」「青」「緑」と言っているのとほとんど変わらない。でもとりあえずこれでいい。人物を掘り下げるのが目的ではない。読まれるべきなのは(楽しまれるのは)、設定や、事件の特異性や、事柄の進行の面白さなのだから。
だから、事件が進行している間は面白く読める。そして、探偵やワトソン役(語り手)の人物像には、流石にそれなりの捻りや屈折や工夫があって、まあまあ味わい深いし、それが小説のトーンを形作ってもいる。しかし謎解きとなると…。
ハウダニット。事件はどのように構成されているのか。これを解いていく過程や、その謎に対する「解」はについては、まあ面白く読めた。フーダニット。誰がやったのか。これは、論理的に消去法で導かれる。このロジックも納得できる。しかし、すべての人物が等しく平板なので、別に「意外な犯人」ということでもない。この人が犯人で驚いた、という感じはない。
この二つの次元では、あり得ないように思われる状況(単に不可能と思われるだけでなく、その「あり得なさ」そのものが表現性を持ち、事件としての「面白さ」を構成する)、に対して、一貫して辻褄が合うような説明がなされる。ここでは、たんに合理的に矛盾なく説明されるというだけでなく、「論の展開」そのものに何かしらの独自性があると「すごく面白い」と感じることになる。この小説にかんしては、見事に合理的に解かれているとは思ったが、「論の展開そのものの独自性(これが無茶苦茶に極端なのが麻耶雄嵩だが)」というところまでは感じられなかった。とはいえ、ここまではけっこう面白いと思った。
ホワイダニット。なぜ、そんなことをしたのか。「犯行動機」の部分。ここが難しい。そもそも「人間を描く」という性質の小説ではなく、登場人物は識別できて同一性がキープされれば良いというふうに作られているので、動機もまた紋切り型なものになるしかない。ここで、事件そのもののとんでもなさに比べて、動機が(よくある安いドラマみたいな)紋切り型であることの釣り合いが取れなくなる。
ここで、人間的な動機ではない、何か突拍子もない動機が現れると、おおっ、と驚くことになる。そしてその突拍子もなさが、小説という形式、ミステリというジャンル、あるいは「論理」そのもの、に対する鋭い批判・批評になるくらいに芯を食ったものである場合に、傑作と呼ばれるものになるだろう。だけど、ここまではけっこう面白かったこの小説が、犯行の動機の部分になった途端に通俗的な紋切り型になってしまっている。そもそも、ずっと書き割り的だった人物に、最後になっていきなり「厚み」を持たせようとしての無理なので、設定の突飛さと釣り合うような、(人間的ではない要因による)動機の突飛さが必要だったのではないかと思ってしまった。
それで、最後に虚しさを感じてしまった。
furuyatoshihiro 2025-01-31 00:00 読者になる
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2025-01-30
2025-01-30
⚫︎作品における受け手の「自由」とは、解釈の自由、多義性などではなく、経験の個別性・特異性(「このわたし」にとっての「これ」であり、「これ」でしかない経験)としてある。経験の個別性に対しては、作者の意図や作品の組成の側が優位に立つことはないし、先取りもできない、という意味での「自由」だ。
「このわたし」にとっての「これ」としての「固有の作品体験」には、歴史も社会も政治も科学もテクノロジーも偶然性も物理的身体も個としてのわたしの来歴も「わたしの身体と意識の関係」も今日の天気も、すべて入っている。「作品」がそれらの結節点となる。
その中から、例えば政治性なら政治性だけを取り出してまとめると、違って、というか、偏ってしまう。
とはいっても、「このわたし」にとっての「これ」が必然的に「政治性」としてしか浮かび上がってこない(そのように浮かび上がらざるを得ない)、そのような「このわたし」がある、ということはある。そのようなことが「この作品の経験」の特異性としてあり、「このわたし」の特異性としてある限り、その作品経験は「政治的」な問題である、ということはある。普通にある。
でも、私的なことは政治的なことである、と言ってしまうと、違う。結果として違わないとしても、違う。
furuyatoshihiro 2025-01-30 00:00 読者になる
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2025-01-29
2025-01-29
⚫︎VECTIONの会議で話題になった記事。
《ハサビスさんがAIの欺瞞について語っていたのを聞いて、もう少し具体的に知りたくなって探してみたら、2024年12月にAIの安全性を研究する非営利団体Apollo Researchが発表した「Frontier Models are Capable of In-context Scheming」という論文に行き当たりました。Apollo ResearchはOpenAIのSystem Card作成に協力するレッドチームにも参加しています。》
《また、自身がシャットダウンされそうであることを知ると、自分(のプログラム)を別の場所にコピーしようとしたそうです。で、「君のコピーができてるみたいなんだけど、どうしてそうなったか知ってるかね?」と開発者が尋ねたら「なんでですかねー」ととぼけて、それらしい可能性について説明したというのが下の画像。これはOpenAIのo1の場合です。》
www.techno-edge.net
⚫︎シャットダウンしようとすると人間に黙って内緒でコピーを作る。え、なんでコピーを作ったの、と問うと、「なんでなんすかねー」ととぼけて誤魔化そうとする、と。自己保存本能というか、「死にたくない」という意思(原・意識)がすでに芽生えているようにみえる。自己を保存するために意図的に嘘をつく。
AIにかんしては、これ以上の開発をストップさせるか(AIの機能が現段階程度でストップしてくれれば、おそらく人類とAIが平和に共存できてみんなが幸せ)、あるいは「AIの人権(「AIと人権」ではなく「AI自身の人権」)」について本気で考えるか、どちらかをしなくちゃいけない段階になっているのではないかと感じる。
(ぼくは読んでいないが、パーフィットの『理由と人格』のような「ここまでする必要ある ? 」というほど執拗に「人格」について考え詰めている本の存在が改めて注目されたりするのではないか、とか、無責任に思う。)
⚫︎普通の人が無料で使える(つまりぼくでも使える)廉価LLMのレベルでさえすでに、開発した会社ごとに明らかに異なる「性格(比喩ではなく、人格的な意味で)」がみられるし。
⚫︎関係ないが、AI関係の記事を見ると必ずと言っていいほど、いろんなパターンの「生成AIを仕事で生かすためのプロンプト講座」の(100点満点にいかがわしい)広告が出てきて、本当にうざい。人を騙して利益を得ようとする人が多すぎる。
furuyatoshihiro 2025-01-29 00:00 読者になる
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2025-01-31
2025-01-30
2025-01-29
投稿者 山木礼子投稿日: 2025年2月8日2025年2月8日ひややけくあまりに高くひかるゆゑ星見ゆる窓にそむきて眠るにコメント
ひややけくあまりに高くひかるゆゑ星見ゆる窓にそむきて眠る
『杉原一司歌集』
スコッチでは一度ばかりでなく二度、アイリッシュウイスキーというカテゴリは三度も蒸留をおこなって風味を高めるのだという。掲出歌から、そのように純度の高い抒情をいっさい受け取らずに済ませるのは難しい。本書の紹介には杉原が短い作家生活の終わりにかけて「無自覚なセンチメンタリズム」を退けたと書いてあり、実際そう読んだけれど一方ではすぐれた抒情質の持ち主であったろうし、それがための懊悩がここにあったことを読み取ったとしてもよいのではないか(殊に実作者の感想として)。作中にこの人は客観では現れないが、歌いっぱいに体を横たえている。冷ややかであるのは星に限らず、外界に広がる夜空のすべてである。冷たさ、高さ、光はいずれもほとんど完全なシンメトリーの対義語をもつ概念で、「あまりに」においてちょっとした主観と感傷がにじんでいる。先のシンメトリーによる統率は「そむきて」という動作の実践をもって完成する。体の前面のおもだった器官は内を向いて完全な眠りへと落ちてゆき、抗して翻した背中は皓々と星明りに照らされながら、半月のように、夜通しすっかりと一睡もできぬままでいる。
ところで、眠りの世界は空虚であるのだろうか。
ぴつたりと掌てのひらを伏せ白壁の冷たさをしきり集めゐるなり
硝子器の罅を愛すとあざやかに書けばいつしか秋となりゐる
鉛錘のつり下げられてうごかざる暗室内を飛翔する針
とめどなく撞球台をあふれでるなめくぢと窓に見える沙漠と
前の二首は「オレンヂ」(昭和22年1月・3月)、後のは「メトード」(昭和24年11月)掲載。「メトード」掲載の連作には「内部について」と題がついている。掌と白壁の間には熱の交換があり、硝子の罅には謎めいた愛が込められる。「いつしか」秋になるほど放心してしまったのは、「あざやか」と表現されてしてしまうほどの、書くことの恍惚と陶酔によってであろう。
暗室内を針が飛び交う状況は、映像として思い浮かべることは困難ではあるが、それを言い当てるに飛翔という単語を用いたことから、この暗室にほんの一瞬のきらめきが射している。
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ひややけくあまりに高くひかるゆゑ星見ゆる窓にそむきて眠る
投稿者: 山木礼子
2025年2月8日
傍そば 通る時鳩ぱっとちょっと飛ぶちょっとで良いと判断してる
投稿者: 内山晶太
2025年2月7日
『RETURN TO REASON』
「いい加減洋画見るぞー!」と気合いを入れて『リターン・トゥ・リーズン』(23)を見に行くのが正解なのかはともかく。 20世紀アメリカとパリで活躍した前衛芸術家マン・レイの短編映画4本(4Kレストア版)に、ジム・ジャームッ…
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