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おとなりアンテナ | おすすめページ

  1. 2025/04/04 17:54:29 一首鑑賞 含むアンテナおとなりページ

    投稿者 内山晶太投稿日: 2025年4月4日2025年4月4日いちがんとなりて昂るわれわれゆ離かれゆきたりしいちにんわれはにコメント
    いちがんとなりて昂るわれわれゆ離かれゆきたりしいちにんわれは
    高木佳子『玄牝』
    正義は人を狂暴にする。正義こそ口ごもりながら伝えられるべきものであるにもかかわらず、それを手にしたとたんおおよその人はいきいきと狂暴化する。並行して正義は数を力にしようとする。また、たくさんの人のひとつひとつの顔をのっぺらぼうにしてその場の正義に同化させてしまわないと気が済まなくなる。きちんと顔をもった人々の集まりが「いちがん」の中身であるはずなのに、「いちがん」に組み込まれたとたん一人ひとりの顔は溶かされて鋳型に流し込まれ、巨大な「いちがん」の顔が出来上がる。しずかに考えてみればそういうことなのだけれど、渦中にあってこのプロセスに気づくことができる人はごく少数なのではないかと思う。歴史的に見ても人間は同じあやまちを繰り返しながら時代を作っているように思えるなか、リアルタイムでこの歌に出会えたことは個人的にはとても貴重な出来事だった。
    国家であれ会社であれ町内会であれ「われわれ」であることが力となって何かを推し進めていくのだとしても、そこに全面的に加わるとき生じる違和感というものがたしかにある。かつて一度だけデモに参加したのだが、そこにはさまざまな組織の幟が立ち並び非常に違和感を持った。個人としてそのデモに参加しながら、傍目にはかずかずの幟に従う巨大な顔の一部にされてしまったようで不本意だったのだが、この一首の背景にはそれよりはるかに強烈な同調への圧力がある。
    怒りさへ強ひられてくる福島にありて強ひくる人を覚えつ
    掲出歌と同じ「異族」という連作のなかの一首。他者の感情を規定することは当然できないはずだが、ある場面で人はやすやすとそれをやってのけてしまう。おそらく相手方にまったく悪意はないのだろうけれど、その悪意のなさは個人が「いちがん」に吸収されることで得られた悪意のなさである。しかし「いちがん」の顔は巨大すぎて見ることができない。個人の顔を凝視し記憶することでしずかに抵抗するほかになく、それはとても苦い。集団と個人との関係についての絡まりをほぐすことなく、絡まりのまま示し得たことが「異族」の、また『玄牝』の見逃すことができない特質なのだと思う。
    人乗せていまだ人なき野をぞゆく銀の電車のひたすらがある
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    いちがんとなりて昂るわれわれゆ離かれゆきたりしいちにんわれは
    投稿者: 内山晶太
    2025年4月4日

  2. 2025/04/04 00:03:59 gojo | gojo’s含むアンテナおとなりページ

    『白雪姫』
    嫌いじゃないマーク・ウェブ監督なのに酷評しか耳に入ってこないので真偽を確認するため、『白雪姫』を。ディズニー初の長編アニメ『白雪姫』を実写化したミュージカル。 この映画を悪く言う人の主な意見が「原作(アニメ版)と違い過ぎ…
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  3. 2025/04/02 18:48:12 偽日記@はてな含むアンテナおとなりページ

    2025-03-29
    2025-03-29
    ⚫︎『孤島の来訪者』を読んだ。方丈貴恵の(そして竜泉家シリーズの)二作目。この作家の本を読むのは三冊目だが、読む順番が、三作目→一作目→二作目という変則的なものになってしまった。竜泉家シリーズの三作ではこの二作目が最も評価が高いようだが、確かに「特殊設定」の導入の仕方が三作中では最もスムーズだし(決して「自然」とはいえず、え、ええっ、いきなり? 、と思うのだけど、かったるい感じやもたついた感じがない)、ミステリとしてもとても綺麗にできているように思った。ただし、ぼくの好みとしては(読んだ順と同じで)三作目、一作目、二作目という順番かなあ、と。
    最近のミステリの多くがそうであるように、一度だけの謎解きでは終わらず、まず、犯人によって仕組まれた「操られた推理(偽の真相)」があり、それでいったん解決したように見えるのだが、さらに先があり、犯人の企みを破っての「真相」への到達がある。そして加えて、ミステリ的なドンデン返しではないが(主人公=探偵と同調する)脇役の「隠された目的」のようなものが明らかになってもう一度(軽く)驚くというという段階があって、三段構えになっている。
    犯人によって仕掛けられた「偽の手がかり」によって導かれる操られた推理がまずあり、次に犯人による「操り」が破られるのだが、そのきっかけは、ここでは「犯人の失策」というより「犯人の身体的条件」だ。この作品は特殊設定なので「犯人」は人間ではなく、人間との身体的条件の違いが、犯行を可能にし、また、それによって探偵は真相への経路を掴むことになる。
    (とはいえ、このような身体的条件の違いは人間同士でもありえて、実際、有名作品のトリックの焼き直し的なところがある。)
    ここでは、偽の真相から真相へと至るためには二重の謎解きが必要になる。まずは、犯人が持つ人間たちとの「身体的な条件の違い」を、犯行状況から導き出すことが必要であり、その上で、そのような身体的特徴を持っているのが「誰」であるのかを、さまざまな状況下でのその(擬態された)人の「動き方」を検討することによって特定する必要がある。
    偽の推理を誘導する「偽の手がかり」を用意して探偵を「操る」メタ的犯人が想定される場合、そのメタ構造を探偵が指摘したとしても、そのメタ構造自体が、メタメタ犯人によって仕組まれたものである可能性は否定できない。このようなメタ構造の無限後退(≒後期クイーン的問題)を、とりあえず止揚するために「犯人の失策」を探偵が嗅ぎつけることで、犯人をメタレベルから引き摺り下ろすというやり方がある。しかしこれも、それが本当に失策なのか、あるいはそれもまた「失策を装った偽の手がかり」であるのかを、メタレベルからの保証・介入なしでは決定することはできない。
    しかしここでは「失策」ではなく「身体的条件」なので、犯人自身にもその「設定」を任意に変えることはできないことになる。ここに、後期クイーン的問題に対する一定の工夫があると言える。とはいえ、そのような身体的条件であることを「演じる」ことはできてしまうのだが。
    ここでは、身体的な条件の違いは、特殊設定の中の「隠し設定」としてあって、この「隠された設定」を、ゲームをプレイする中で見つけ出すということが、「真相」へ至る推理のための第一歩ということになるのだ。
    犯人は人間ではなく、人や動物に擬態できる。犯人が、殺した人や動物に擬態できるという設定により、ジョーカーのないババ抜き(オールドメイド=ジジ抜き)のような状況が作られる。特殊設定により作られる状況。特殊設定により可能になる犯行。そして、(隠された)特殊設定により明らかになる真相(特殊設定故に綻びを見せる犯行)。このように、特殊設定が非常にうまく使われているのだけど、故にあまりにもゲーム的であり過ぎて、設定そのものが持つコンセプチュアルな面白さがあまりないと感じてしまうというところがある。
    特殊にたてられている設定が、そもそもミステリに(ミステリ的なガジェットや道具立てに)親和的なものでありすぎることで、こんなに無茶な設定をたてて、こんなに無茶をやってまでもそれを成り立たせるのか ! 、みたいな驚き(呆れ感)があまりない、という感じ。
    furuyatoshihiro 2025-03-29 00:00 読者になる
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    2025-03-28
    2025-03-28
    ⚫︎ミステリにおいては、途中の段階では、さまざまな謎があり、謎に対する多様な解釈(結果的には「間違い」ということにされる、叩き台的な複数の推理)があるが、それらは最終的には「唯一の真実」に収斂される。
    だがこれは、テキストのあり得る多様な「読み」が、特権的、中央集権的な「唯一の真実」によって抑圧されるということとは、少し違う。
    唯一の真実の提示は、世界を一義化するのではなく、「表(謎) / 裏(秘密)」という世界の二面性化、あるいは「表層(現象・事件) / 深層(本質・真相)という「深さ」のイリュージョン(遠近法)をもたらす(真相は「裏」あるいは「奥」に隠されている)。
    複数の解釈(複数の決定的ではない推理)という平面的並立状態を抑制し、それらを統べる「唯一の真相」が成立することで遠近法が成立し、表に対する裏、表面に対する奥行き(深さ)が作り出される。
    この、二面性と奥行きの作る魅惑こそが、ミステリを支えているように思う。
    (これはいくらなんでも乱暴に単純化し過ぎているだろう。どのような裏を、どのようにして作り出すか、どのような奥を、どのようにして作り出すか、という、いわばトポロジー的な構築が、個別の作品の固有性を、それぞれ個々に生み出しているだろう。)
    だから、このような「唯一の真相」に抗するように見えるポストモダン的な多義性とは、唯一性(一義性)に対する多義性であるより、奥行き(遠近法)を拒否することによって結果的に生まれる並立性と考えるのが良いのではないか。多義性の確保よりもずっと、遠近法(裏側・奥行き)の相対化のほうが重要なのだ。
    とはいえ、たんに奥行きを否定するだけでは、のっぺりとした退屈で平板な世界が広がるばかりだ(多くの退屈なポストモダン的な作品群…)。
    ⚫︎たとえば一つの例として、その並立的で平面的な多義性が、並行世界的(様相理論的)な多世界性へと発展することで、遠近法的な深さとは別種の「浅い奥行き」としての深さが生まれる。このような「別様な奥行きのあり方」を作り出そうとすることこそが重要なのだ。
    ただ、小説的、あるいはフィクション的な並行世界性が、様相理論的な並行世界性と異なるのは、フィクション的世界は稠密でも充実しているのでもなく、隙間だらけ、穴だらけで、スカスカであるということだろう。
    フィクション的世界は、あらゆる可能性を汲み尽くす(数え尽くす)ことなく、明示的に描かれていないところは、ふわっとぼんやりした背景のまま、あるいはまったくの空隙のままで放置され、(底が抜けたままで)残されている(セザンヌのキャンバスが絵の具で塗り込められてはいないように、あるいは、あらゆるフィクションに「フレームの外」があるように)。だから、フィクション的世界は、(並行世界「的」ではあっても)厳密に様相理論的な意味での並行世界ではない。
    フィクションでは、その空隙こそが仕事をする、のではないか。それは、内にはあるが「外」であるものであり、同時に、外にはあるが「内」になり得るものでもある。
    内部の外部であることと、外部の内部であることとは、意味がまったく異なるが、その、異なる意味の両価性を併せ持つことによって、フィクションにおける「空隙」は作動する。空隙は作品の内部でもあるが、外部でもあるので、その働きは、作者によっても、作品そのものによっても、また読者によっても、制御できない。
    furuyatoshihiro 2025-03-28 00:00 読者になる
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    2025-03-27
    2025-03-27
    ⚫︎代々木公園で、保坂さん主催のお花見の会。保坂さんの花見会では毎年、正午過ぎから終電近くまでずっと飲みつづけ、しかも、いろんな人が持ち寄ったいろんな種類のお酒をちゃんぽんで飲むので、ベロベロに酔うことになるのだが、今年は胃がまだ本調子ではなく、飲むのも食べるのも、恐々と様子を見ながらという感じで、セーブせざるを得なかった。とはいいながらも、長時間なので、トータルではけっこう飲んだし、食べたはず。それでも胃は大丈夫だったので、もう大丈夫なのだろう。
    ただ、コーヒーを飲むとまだちょっと、うーん、という感じになる。
    ⚫︎全然知らない人も、保坂さんの花見の時にしか会わない人もいて、相手がどんな人なのかもよく知らないまま、一緒に飲んだり食べたりするという、この会以外ではあまりない、不思議な会だ。二十代前半くらいの若い人と話す機会も、他ではあまりない。
    去年は確か、まったく桜の咲いていない花見だったが、今年はすこし咲いていた。とはいえ、桜の木がほとんど見えない場所でやるのだが。
    (しばらく一緒に飲んでいた若い人が、保坂さんの『ハレルヤ』をもってきていて、保坂さんにサインをもらいに行ったのだが、この日の保坂さんは『ハレルヤ』の表紙に映っているのとまったく同じシャツを着ていた。)
    furuyatoshihiro 2025-03-27 00:00 読者になる
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    2025-03-26
    2025-03-26
    ⚫︎胃がまだ本調子ではなく、食べるものは普通に食べられるが、コーヒーを飲むと重く胃にもたれる、なんなら胸焼けもする感じがある。しかし、コーヒーを欲する気持ちはとても強い。自分にとって、アルコールを飲めないことよりもコーヒーを飲めないことの方がずっと辛いのだということを知った。なので、ほんの少量だけコーヒーをいれて、まるでウイスキーをストレートで飲む時みたいに、様子を見つつ(チェイサーも用意して)、ちびちびと舐めるようにコーヒーを飲む。
    ⚫︎金柑の前にある、この黄色い花はなんなのだろうか。
    furuyatoshihiro 2025-03-26 00:00 読者になる
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    2025-03-25
    2025-03-25
    ⚫︎『失われた時を求めて』にかんしては、第一篇の「スワン家のほうへ」すら最後まで読めていないので、何かを言う資格などないのだけど、それでも、有名なその書き出し部分はとても面白く、書き出しのところだけ何度もぐるぐる読んでしまって先に進めないという感じすらある。
    (一応、井上究一郎・訳のちくま文庫版は10冊すべて持ってはいて、間をつまみ食い的にちょこちょこ読んでいたりはする。)
    長い間にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考えに目がさめるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。そうした気持ちは、目がさめて、なお数秒のあいだ残っていて、べつに私の理性と衝突するわけではなく、何かうろこのように目にかぶさって、すでにろうそく台の火が消えていることに気づかせないのであった。
    まず、自分が「教会」とか「四重奏曲」とか「抗争」とかになってしまうというのもかなり変なのだが、何よりこの部分が好きなのは、ろうそくを消した途端に眠ってしまっているにもかかわらず、《もう眠らなくてはならない時間だという考えに目がさめ》るという、なんというのか「逆説的な時間」において、すでに手にもっていない《まだ手にもったつもりでいる本を置こうと》し、すでに消している《あかりを吹きけそうと》する、というところだ。
    この、決して行為に至ることのない「未然の行為」は、現実でも夢でもない、そのあいだにある存在しない次元で、行われようとして、しかし決して行われない。ただ「行おうとする志向性」だけがあり、しかしそれが行われ得る「場」がそもそも存在しない。このような、現実だろうと夢だろうと虚構だろうと、「この世界」の内部には決して書き込まれる場所を持たない、そして決して行われることなく「未然」のままでしかあり得ない、行為たり得ることのないままであるしかない「(未)行為」に、この文章は居場所を与えている。
    おそらく、こういうもの(永遠に未然であるしかない行為)に居場所を与えることは言葉(言語表現)にしかできないように思う。
    ⚫︎たとえば埴谷雄高は、この宇宙そのものが壮大な誤謬であって、この宇宙に存在するものはすべて間違っていて、正しいのは、未だ存在せず、そしてこの後も決して存在することのない「未出現」のものだけであり、その未出現の宇宙とは、ただ「夢」を通じてかろうじてアクセスすることができるだけだ、といい、そういうことをなんとか小説で書きたい、ということを、生前にNHKの番組のインタビューに答えていて(この発言はどことなくメイヤスーを想起させるのだが)、ぼくはそれをYouTubeで観て、とても面白いと思って(高校生の時に読みかけでそれ以来放置してあった)『死霊』を改めて読み返してみたのだけど、小説はそこまで面白くはなくて、またも途中でやめててしまった。ぼくは埴谷雄高の発言を、自分の関心に方に強引に惹きつけて聞いてしまったのだと思うが、ぼくが勝手に埴谷雄高の発言から期待してしまったものを、少なくともそれを実現させるために必要な「場」を、プルーストのこの書き出しは、なんということもなく、ふっと開いてしまっているように思える。
    furuyatoshihiro 2025-03-25 00:00 読者になる
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    2025-03-24
    2025-03-24
    ⚫︎最近は、ミステリ小説だけでなく、ミステリにかんする批評もたくさん読んでいる。そこには、叙述トリックは意図的な「言い落とし」によって成立すると書かれている。叙述トリックの話者は、嘘はついていないが、意図的な「言い落とし」によって読者のミスリードを誘う。嘘は言わない(ということに建前上なっている)が、意識的に重要なことを「言わない」ことで、読者の臆見を利用して、「真実」を見えなくする。
    (叙述トリックにもまた、後期クイーン的問題が発生し、叙述トリックの果てに最後に明かされる「真実」でさえ、話者によってさらに上位階層で誘導されたトリックなのではないかという「疑い」を、作品内で完全に晴らすことはできない、ということになる。「言い落としがない」ということを、メタレベルを用いずに証明することはできない。)
    叙述トリックにおける「言い落とし」は話者(とその背後の作者)によって、読者をミスリードに誘うという意図によって「設計された」ものである。ゆえに、そこで生じた「世界の空隙」は、真相が明かされることで回収される。世界の「穴」は合理的に埋められる。しかし、それを読んでいる時に感じられ続けている、「この世界には根本的な欠落があるのではないか」という感覚は、フィクション内における整合的でロジカルな「穴埋め」によって消えるわけではない。読者は「合理的な穴埋め」を楽しむというより、むしろ「この世界には根本的な欠落があるのではないか」という感覚の方にに惹かれて、ミステリを読むのではないか。
    ⚫︎そもそも、すべてを隙なく記述することなど不可能なのだから、「言い落とし」のない小説などあり得ない。というか、穴や空隙のない「世界」などあり得ない、のではないか。
    ⚫︎物事の背面(裏側)や深層に、何か秘密が隠されているのではなく、世界は充実した事物たちによって稠密に構築されているのでもなくて、世界には隙間や空隙が至る所にあり、その隙間から、異世界や並行世界が侵入してきて、知らぬ間に(シームレスに)世界を別ものに変質させてしまう(追記、その「変質」は事後的にしかわからない)。あるいは、世界はそもそも、隙間だらけの断片の寄せ集めであり、それを底で支えるしっかりした基盤などなく(基盤こそがイリュージョンであり)、その都度の断片の組み換わりによって、それを支えているかのように思われた基底面そのものがいつの間にか入れ替わって別様になっている。
    たとえばセザンヌの絵画において、タッチとその背後の空隙との関係が示しているのはそのような世界像であり、そこには、基盤も根拠もない世界の中で、有(タッチ)と空(空隙)とが絡み合うことでかろうじて「図と地」という構造が生まれ、基盤も根拠もない中から、イメージや事物が、それを存在させている時間や空間との構造と同時に生成されている様が示されている。
    だから、有(タッチ)と空(空隙)との配列が少し乱れただけで事物も時空もともに消失してしまうし(ただタッチの乱立があるだけになる)、配列の構造が変われば事物と時空の関係が根本から変化してしまう(別の物理法則が支配する世界 ? )。
    セザンヌの絵画が示しているのは、世界の底のなさ(そもそも世界の底が抜けているということ)と、しかし同時に、底の抜けた世界の中でかろうじてギリギリに、時空構造と事物が危うくも成り立っているということ(ランディングサイト ? )との、その拮抗するあり方そのものだ。
    ⚫︎叙述トリックのミステリにおけるリアリティが、「この世界には根本的な欠落があるのではないか」という感覚の方にこそあるのだとしても、それでもなおそこに「(それ自体本当に信用できるかどうか危ういものとして)合理的な解決」があるということと、セザンヌの絵画において、「そもそも世界の底が抜けている」という感覚が示されるのと同時に、それでも事物と時空構造がギリギリで成り立っているということとは、パラレルであるのかもしれない。
    ⚫︎いや、そうではなくて、「合理的な解決」があることにより物事の裏側や深層という次元(深さ)が遠近法的に作画され、そこから秘密・裏切り・悪意・悪徳といった「魅惑的なもの」が生産されるということなのか。
    (追記。笠井潔は『探偵小説と叙述トリック』の四章「叙述トリックと探偵小説の無底性」において、本格ミステリの「隠す」という意図のある「言い落とし」と、小説一般にみられる、すべてを記述できないことによる「省略」とを同一視することを批判しているが、そもそも「言い落とし(隠蔽)」と「省略」との違いは、作品という「体系」が完結した後に事後的・遡行的に(配置・文脈によって)判別することしかできないのではないか。さらには、新たな読み=解釈によって、「言い落とし」と「省略」との意味が入れ替わることもあり得る。たとえば、精神分析的な読みが、たんなる省略と見えるところに隠蔽的な主体の関与を嗅ぎとるということは、普通にある。だから「言い落とし」と「省略」とは綺麗に分けられない。「言い落とし」が「省略」に、「省略」が「言い落とし」に切り替わるかもしれない「未来の可能性」を、現在時において否定し尽くすことはできないと思われる。)
    furuyatoshihiro 2025-03-24 00:00 読者になる
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    2025-03-29
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    2025-03-25

  4. 2025/04/01 06:42:58 Les jardins suspendus de Babylone含むアンテナおとなりページ

    2024-08-15
    北方旅行
    8月中旬、東北から北陸にかけてを旅した。そのときのメモ。写真はFacebookに。
    8/10(土)には青森県立美術館に赴き、まずは「メディシン・インフラ 鴻池朋子」展とその一環としての連続パフォーマンス「筆談ダンス」を見学した。この企画展は、「健全・健常」を外れた身体、「メディシン」が持つ霊媒的な、あるいは「他者になる」という意味合い、食べる・食べられる、寄生する・される、排泄する、死ぬことによる自然界との循環など、研究課題である「ファルマコン(毒/薬の両義性)」というテーマを考える上で、まさに重要な題材となるものであった。
    合わせて、開催中の地方芸術祭「AOMORI GOKANアートフェス2024」の一環である栗林隆による展示「元気炉」も体験。「科学技術」というファルマコン的なものの象徴である「原子炉」のパロディとして、薬草を使ったスチームサウナを来場者参加型インスタレーションとした本作も、研究テーマに対する示唆を与えてくれた。
    建築家・青木淳設計の美術館の建物は、導線が複雑で「どこに何があるのか」が予測しづらい平面図になっている(館内には案内が充実しているため、実際に迷うことはほとんどないが)。縄文時代の遺跡上にあるため、このような作りになっているとのこと。展示室に向かう回路も効率的な直線ではなく、スロープや細い通路などの迂回を経るのだが、そのことによって作品に辿り着くまでの行程が、一種の「巡礼」のようなものになっているという印象を受けた。
    8/11(日)には、まず午前中に三沢市寺山修司記念館を訪れ、企画展「青女たち・女神たち寺山修司の女性論」と常設展示、映像資料・演劇資料の閲覧を行った。
    元々計画していた研究テーマ(女性イメージ、「皮膚、疱瘡(皮膚病)、白塗り」の系譜)に加えて、寺山がかなり早い段階から「クィア」的な人物を意識的に演劇に登場させていたこと(『毛皮のマリー』、『星の王子様』など)に気づかされた。
    寺山記念館でのフィールドワークが予定よりも早く終わったため、午後は十和田市現代美術館へ赴き、企画展「野良になる」と常設コレクションを体験・見学した。青森県美の「メディシン・インフラ 鴻池朋子」展と同様、十和田現美の「野良になる」も、人間-動物(昆虫や微生物、死者なども含む)-植物-無機物・人工物の間の人為的な境界を超えた「マルチスピーシーズ」や「アクターズネットワーク」がテーマになっているように見受けられた。この2つは昨今の人文学で国際的に注目されている概念であるが、それゆえ「便利なマジックワード」と化しているきらいもあり、この点についても今後掘り下げて考えるべきという課題を得られた。
    8/12(月・祝)は山形に移動し、出羽桜美術館にて「斎藤真一 放浪記」ほか斎藤真一の絵画作品現物と制作の背景・文脈となる資料を閲覧した。画集などの複製メディアでは分からない作品の細部やマティエールを確認できた。
    8/13(火)は山形-富山間の移動(所要時間は約6時間)に費やした。月曜祝日後の火曜日で、博物館・美術館・文書館の類は軒並み閉館ということもあり、この日は調査研究は行なっていない。
    8/14(水)は富山県美術館に赴き、瀧口修造コレクション展ほか、常設の美術品・デザインプロダクトのコレクション、企画展の「民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある」展、内藤廣設計の建築につきフィールドワークを行なった。
    瀧口の「オブジェ」コレクションとそれに関する言説からは、瀧口固有の思考のあり方だけでなく、同時代に重複する分野で美術批評家として活動した澁澤龍彦との「オブジェ」に対する捉え方の違いも浮かび上がってきた。
    富山県美の特徴であるデザインコレクションや、館内のデザインへの徹底したこだわりからは、20世紀モダニズム建築以降の「建築とプロダクトデザイン(特に椅子)」の密接な関係という、「建築」や「身体とデザイン」を考える上での重要な論点にも気づくことができた。
    baby-alone 2024-08-15 00:00 読者になる
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    2024-03-25
    田中純教授退職記念パーティでのスピーチ
    2024年3月25日、田中純教授 最終講義後の記念パーティでスピーチさせていただいたときの草稿。自分自身の研究者・大学人としてのスタンスを確認するという意味でも、こちらに残しておこうと思う。
    ☆ ☆ ☆
    田中純先生
    ご退職、おめでとうございます。今までのコマバでのご奮闘に、そして私たちを導き、育て、ときにしばき上げてくださったことに、改めて敬意と感謝を申し上げます。今日は田中先生の指導学生のなかでも「不肖の弟子」の立場から、拙い言葉をお送りしたいと思います。
    私は修士課程からコマバの表象文化論専攻に飛び込みました。当初私が考えていた研究テーマは「身体とファッション」でしたが、それ以上に、「なにか破壊的に面白い知的スリルのある場に身を置き、出来ることなら自分もそれを創り出したい」と考えていました。その「破壊的に面白い知」を当時のコマバで担っていた一人が、当時はまだ「青年将校」だった田中先生でした。
    修士課程のときの指導教員、それから博士課程進学後、当初の指導教員だった松浦寿輝先生のご退職後に再度指導教員になっていただいたのが、田中先生です。田中先生の他の指導学生たちが、代々言わなくてもきちんとできる「出来杉英才」くんタイプであったのに対し、私はだいぶ先生を手こずらせたと思います。投げ出すことなく、根気強く真摯に指導をしてくださったこと、何よりも日々紡ぎ出すテクストにおいて、圧倒的な「お手本」を示してくださったことへの感謝は、どれだけ言葉を尽くしても足りません。
    私が参加した田中先生の最初の授業は、岡崎乾二郎の『ルネサンス 経験の条件』を精読する演習でした。第一印象として「苦虫を噛み潰したような」という慣用句が頭の中に思い浮かびました。大学教員が軒並み怖かった時代ですが、田中先生はとりわけ「怖い」先生として有名でした。しかし、その「怖さ」の背後には、学問と思考に対する徹底した真摯さと、学生も対等の存在として扱い、真剣勝負を求める誠実さがあることは、すぐに分かりました。テクストであれ人間であれ、対象に向き合うときに透徹して峻厳かつ誠実な方なのだと受け止めました。ですから、「怖い、厳しい」指導でも、抑圧的と感じたことはありませんでしたし、先生の何事にも真摯で峻厳な態度は、怠惰な自分を戒める超自我?として、また研究者のロールモデルとして、常に私の中にあります。
    最初に出会った田中先生のご著作は、『都市表象分析I』だったと思います。これはその後の私の思考を筋道づけた一冊となりました。それとほぼ同時に、(おそらく新書館から刊行されていた『ファッション学のすべて』だったのではないかと思うのですが)田中先生がデヴィッド・ボウイとボーイ・ジョージのファッションを論じた短いテクストを読む機会もありました。当時はその振り幅の広さと、発想の闊達さを愉快に感じると同時に、自分が興味を惹かれつつも、知的な思考でとらえることは難しいと思い込んでいた対象に、このようなアプローチと言語化が可能なのか!と眼を開かされました。その後も、田中先生は次々と、私(たち)の前に新しい世界を、そして新しい思考の地平を、切り開き見せてくれました。それは知的興奮に満ちた経験でした。
    私は研究対象も、また職業的なキャリア形成も、はたから見れば紆余曲折、とっ散らかった道のりを辿ってきたように見えるかもしれませんが、実はその折々で、田中先生が自分の先を歩いていることに気づくことがよくありました。研究テーマもそうですが、その背景にある関心や個人的な嗜好や愛好の対象、ある種の気質などです。そのことに心強い思いをし、また導かれてきました。
    皆さまもご存知の通り、田中先生は、信念の人であり、行動の人であり、そして結果を深く刻みつけることのできる方です。2000年代半ばに、まずは学生たちの研究発表の場としての「表象コロキアム」を立ち上げ、さらには全国規模の学会組織としての表象文化論学会が設立される最初のアクションを起こされたのも、田中先生でした。表象文化論学会は現在に至るまで、皆で共に人文知の最前線を切り開く興奮と緊張感に満ちた場であり続けていますが、同時にまた、この学会によって、研究者としてのキャリア開拓という点で救われた院生・若手も多いはずです。その後も、学生たちが自主的に企画を考案し、雑誌の特集をつくりあげる機会などを提供してくださいました(メディアデザイン研究所発行の『SITE ZERO』などです)。
    最近は勤務先の大学でも、中間管理職的なマネジメントを任されることが増えてきました。自身も一定の権力と裁量を与えられつつ、より上位の権力をチェックする使命も引き受けている――そのような立ち位置のなかで、ときには「これはおかしい」という出来事が起こることもあります。声をあげることには、一定のリスクも少なからぬコストも伴う。そんなときに私を勇気づけ、取るべき行動へと促してくれたのが、先般の総長戦の際に田中先生が示された「大学で培われてきた民主主義的文化を守る」という信念に基づき、事態を変えるべく「闘う」という毅然とした振る舞いでした。
    自分の興味関心の赴くままに脇道にそれ、勝手な道を歩き、しかしふと気づくと、自分が目指すべき方向へと向かって、先を歩いていた田中先生に気づく。ときには師と同じ方向を見て、語り合いながらともに歩く。田中先生との学術を通した師弟関係はこのようなものでした。若気の至りゆえの無謀さで、あまり深く考えずに飛び込んだ「コマバ表象」という場で、田中先生に出会えたことは、私の人生で最大の僥倖であったと思います。
    最後に。田中先生をはじめ、ベンヤミンの専門家がお揃いのところで申し上げるのは口幅ったいのですが、やはり田中先生に宛てて贈りたい言葉があります。ベンヤミンが友人ヘルベルト・ペルモーレに宛てた手紙の中の、よく知られた一節です。――夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。
    ご清聴どうもありがとうございました。
    baby-alone 2024-03-25 00:00 読者になる
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