投稿者 内山晶太投稿日: 2025年3月12日2025年3月12日みずうみに泳ぐおのれをおもうとき海よりずっと臆病になるにコメント
みずうみに泳ぐおのれをおもうとき海よりずっと臆病になる
小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』
この歌を読んだときにすっと差し込むように「わかる」が来たことをまずは言っておきたい。ただ、何をもって「わかる」と感じたのか、海のほうが波立ちも激しく、潮の満ち引きによって沖に流される危険もあり、みずうみに比べてそこに棲む生物も鮫やくらげなど危害を加えてくる可能性が高いものも多い。みずうみはその反対に波立ちが少ないし、潮の満ち引きもなく危険生物もぱっとは思い浮かばない。また、きっちりと陸地に囲まれた有限の安心感もある。みずうみのほうが臆病になる要素が少ない。こうして「わかる」の前提にあるものを精査すると、ほとんどが「わからない」をみちびくはずのものばかりである。ひとつ言えるのは、個人的経験だけを述べれば海で泳いだことはあっても、みずうみで泳いだことはない、ということである。さらに言えば、みずうみに行ったことは何度もあって、その水に手を浸したことも一度ではない。一歩踏み込んで泳ごうと思えば泳げる状況にありながら、そのたびごとに水際に踏みとどまってきたということになる。端的に言って、未経験のことを経験しようとするとき人は臆病になったりするものだが、それに加えてみずうみに行き、みずうみで泳ごうと思えば泳げたのに結局は泳がなかった経験が多ければ多いほど、「みずうみで泳ぐ」ということの手前を遮る目に見えないレースのカーテンのようなものが一枚ずつ増えていくのではないかと想像する。
経験しなかったことの何重ものレースの向こうにへだたったみずうみは透明度を増す。「神秘のベールに包まれた」という慣用表現があるけれど、何かに包まれ、また遮られたものはどこかの地点で透明であることに置き換わるのだと思う。その透明はやがて禁忌や聖域といったものにつながっていく。わたしという一読者がこの一首を「わかる」と感じたのは、手を浸すまではできてもそれ以上踏み込むことのなかった経験が生み出したみずうみの増幅された透明度やその聖性に対する畏れだったのだと時間をかけてたどりつく。
金木犀を嗅ぐすずしさにおもいだす河合塾に通っていたこと
善人じゃないと気づいて人生はようやく冬の薔薇に追いつく
ベランダへ風雨の運んだ砂つぶのこれが塩なら豊かになれる
複雑に散る木洩れ日をすごろくのように歩いて夏だけのこと
『レテ/移動祝祭日』の作品群はこのようにどちらかというとすっきりした姿をしているのだけれど、さりげなく入った亀裂に焦点を合わせるとき、ふとクレバスのような深さを見せてくる。じっくりと時間をかけて読みたくなってしまう歌のかずかずである。
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みずうみに泳ぐおのれをおもうとき海よりずっと臆病になる
投稿者: 内山晶太
2025年3月12日
本日投稿お休みです
投稿者: 山木礼子
2025年3月11日
用もちていでゆく妻が夏の日の照る草むらをへだてて見ゆる
投稿者: 内山晶太
2025年3月10日
2025-03-01
2025-03-01
⚫︎『木乃伊の恋』(鈴木清順)。実は初めて観た。すごいなあ、というところと、うーん、というところがあった。
中心に、上田秋成『春雨物語』の「二世の縁」を置いて、前と後とを現代パートで挟んでいる。だがこの構図は、(脚本の田中陽造というより)おそらく原作である円地文子の小説「二世の縁 拾遺」から来ているようだ。
そもそも上田秋成の「二世の縁」が、強い仏教批判を含む話なのだが、『木乃伊の恋』では、それをさらにえげつなく、「性」への執着という要素を追加して中心に据え、批判というより仏教への侮辱というようなところまでいっているようなひどい話で、しかし、この徹底したひどさこそが本当は仏教的なのではないかとも思えてくる。とにかく、時代劇パートは、観ながら、ひっでえなあ、よくここまでやるなあと呆れつつ、そこが清々しいというか、これが鈴木清順の「地」なんだよなと思う。
ただし、現代パートでは、時代劇パートで好き放題やりすぎたのを回収するかのように、俗流精神分析的というか、70年代の性的メロドラマ的なところに落とし込んでいるみたいになっていて、うーん、となる。「性への執着」と言葉にすればどちらも同じようなことだが、その質がまったく異なっていて、噛み合っていないようにみえる。
(ただし、演出やモンタージュにかんしては、現代パートは無茶苦茶かっこい。)
⚫︎時代劇パートについて。ぼくは「幽霊」は好きだが「ゾンビ」の面白さが今ひとつわからないのだが、これを観て、ああ、ゾンビというのはこういうことなのか、と、少しわかったような気もする。ただしここにあるのは、性的なゾンビ、生臭ゾンビであり、さらには生殖するゾンビでさえある。ゾンビが、女性を求めて徘徊し、性交し、生殖する。ゾンビの子が生まれることによって、一般的な「生殖」というものまで脱意味化するというか、無価値化してしまう。干物であったゾンビが肉化すると、欲望を持つようになり、生殖を行う(乾いた死から湿った生・性へ)。すると、相手の女性の体から、たんなる邪な欲望の化身でしかない虚しい小さな仏が次から次へわらわら湧いて出てきては、ケラケラ笑って、すぐに土へと帰っていく(純粋な欲望の発現とその儚い消滅=乾いた砂・死へ)。生の欲動と死の本能とが循環する運動があるというより、出産の場面ではその二つが一体化して対消滅するかのようなゼロ地点が現れる。それを目の当たりにしてしまった主人公(男性)からは、性行為と生殖の権利が一生奪われる(失われる)ことになる。
だからおそらく、ここには「性への執着」があるのではなく、むしろ、「性に執着するゾンビ」を介した「性・生殖(エロス)の無意味化」があり、去勢(≒現世の対象化)があるのではないか。
⚫︎時代劇パートにおけるゾンビ「入定の定助(にゅうじょうのじょうすけ)」の性への執着は、あくまで機械的、自動的なものだが、現代パートでの性への執着は「老教授の執念」のような個人的なものになっている。
また、現代パートでは語り手(主体)が女性であり、この語り手が老教授の性の執着の対象であり、かつ、この女性もまた、亡き夫に対する性の執着を持っているという相互的な構図になっている。ここでは、それぞれに異なっている(そして、どちらも現実的には不可能である)性への執着・欲望が、その中間地点に「媒介的な幻」を生じさせる(その意味で、ゾンビではなく「幽霊」の話だ)。だから、本来なら決して交わらない、別方向を向いた欲望なのにもかかわらず、媒介的第三項によって(仮想的)コミュケーションが成立してしまうという、「いい話」だということもできる。女性は亡き夫との再会を果たし、老教授は死の直前に思いを果たす。これは、あくまで「人情」のレベルの話だ。
⚫︎人情を超えた、非-人情、あるいは無-人情の世界に踏み込んでいる時代劇パートと、あくまで人情の世界の枠内の話である現代パートとで、対になっているのだとは、言えるのかもしれない。
furuyatoshihiro 2025-03-01 00:00 読者になる
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2025-02-28
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⚫︎昨日の日記に、『夏目漱石 美術を見る目』(ホンダ・アキノ)という本を紹介している動画について書いた。夏目漱石の書いた「美術評」についての本だという。本を読んでいないので、動画で著者自身が語っているのを聞く限りで察せられるということだが、漱石の絵画に対する眼がとても鋭敏であったことがひしひしと感じられる。なかでも、小杉未醒(小杉放菴)という画家の「豆の秋」という絵について「奥行き」という言い方で書いていることが興味深かった。以下の画像は動画からのスクショ(オリジナルの作品は失われていて、モノクロ写真のみ現存しているという)。
・【高瀬毅のずばり!真相】『昭和史』と夏目漱石 ~“美術記者”漱石は何を視ていたのか~
https://www.youtube.com/watch?v=oIgbE4Qy_iY
この画像を見る限りで思うのは、あまり洗練されていないナビ派という感じで、ゴーギャンからドニ、ボナール、そしてマティスへと展開していく流れの中にあるように見える。小杉未醒(小杉放菴)の絵を、ネットで検索してパッと見られる範囲で観てみても、一筋縄では行かない変で面白い画家だと思うが、しかし確実に、ポスト印象派以降の絵画の影響はあって、実際、1913年から翌年までヨーロッパに渡っているというから、ナビ派、あるいはプレナビ派的な絵は観ているのだろうと思う。
ナビ派的というのは、要するに遠近法的な奥行きを潰して平面的に絵を構成しているように見えるということだ。だから、漱石が小杉未醒の絵から見出している「奥行き」とは空間的なものではない。空間的な奥行きを押し潰してしまうことで、空間的な「解決のつかなさ」が画面に生じ、その空間的解決のなさの中に、漱石は「精神性」をみている。精神性と言ってしまうと精神論みたいになってしまうが、当時としてはそう言うしかなかったのだろう。三次元空間において解決のつかない感覚の中に、空間(三次元)よりも上位の次元のありようを見ている、ということだろう。
(ナビ派のことを「装飾的」だと言う人は、この部分が分かっていないのだと、ぼくはいつも思う。)
漱石がロンドン留学時代に、ターナーやジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を観ていることは知られているが、当時のロンドンでは、同時代のフランス絵画を観る機会はなかったのだろうか。漱石の熱心な読者ではないので、漱石がフランス絵画について何か書いているかどうかは知らない。
仮に、漱石が同時代のフランス絵画についてよく知らなかったのだとしても、小杉未醒の作品を通じて、同時代のフランス絵画の問題意識と図らずも(鋭敏にも)同調している、ということではないかと思う。夏目漱石とピエール・ボナールとは、どちらも1867年生まれだ。
furuyatoshihiro 2025-02-28 00:00 読者になる
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2025-02-27
2025-02-27
⚫︎デモクラシータイムスで取り上げられていた『夏目漱石 美術を見る眼』(ホンダ・アキノ)という本がとても面白そう。漱石の小説に美術作品がたくさん出てくるのは誰でも知っているが、漱石は朝日新聞に「文展」についてなどの「美術評」を書いてもいた、と。
下の動画で紹介されている漱石の美術評を、ぼくは概ね同意できるし、とても興味深く感じられた。「奥行き」という語の使い方などとても面白い。ただ、ぼくは、著者のホンダさんよりもかなり穿った見方というか、ちょっと違った視点から読むことになると思うけど。
・【高瀬毅のずばり!真相】『昭和史』と夏目漱石 ~“美術記者”漱石は何を視ていたのか~
https://www.youtube.com/watch?v=oIgbE4Qy_iY
www.heibonsha.co.jp
furuyatoshihiro 2025-02-27 00:00 読者になる
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2025-02-26
2025-02-26
⚫︎VECTIONの会議できくやさんに教えてもらった「市場規模マップ」というのがちょっと面白い。無関係な業種が、ただ「市場規模がほぼ同じ」というだけで並列的に四つ表示される。たとえば、「出版」と「トップバリュ(イオンのプライベートブランド)」の市場規模がほぼ同じだ、ということが分かる。まあ「ネタ」のようなものなのだけど、これを見ると何かが分かったような気になる。本来有料だが、無料で見られる部分もある。
・出版とトップバリュ
https://visualizing.info/article/16859.html
・占いサービスとカルビーポテトチップス
https://visualizing.info/article/16837.html
・プロレスとコンセプトカフェ
https://visualizing.info/article/16997.html
・アパレルと防衛
https://visualizing.info/article/16914.html
・グミとキャンピングカー
https://visualizing.info/article/16960.html
furuyatoshihiro 2025-02-26 00:00 読者になる
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『ゆきてかへらぬ』
16年ぶりの新作ということなので、根岸吉太郎監督『ゆきてかへらぬ』を見に行く。 大正時代、中原中也と小林秀雄に愛された女優長谷川泰子、実在した男女3人の愛と青春の物語。っつっても中原中也についても小林秀雄についても全然知…
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2025-02-14
探偵と文学散歩と「キャラ」概念
Urban Dictionary 都市と建築のイメージ
来年度からの仕事で急遽必要になって、横溝正史の金田一耕助シリーズを読み始めた。
(小学校の工作で急にペットボトルが必要になるのと同じくらい、人生には「仕事で急に金田一が必要になる」瞬間が訪れるのだ。)
『新青年』系の文学は概ね好きだと自認していたはずなのだが、横溝はうっかり通らないまま来てしまった。自分が好きだったのは「モダニズム都市とテクノロジーの神経症めいた経験が出来させる怪奇と幻想」のようなものであり、横溝はそこから外れているように思えたのだろう(しかし、改めて作品を読んでみると、当初の「因循姑息な地方の怨念めいた伝承と名家の呪われた血筋」という先入主とは裏腹に、横溝も「近代的」な作家だったことが分かる)。
先日は、たまたま岡山大学で研究会(ディドロの『サロン評』翻訳を研究室に缶詰になって検討し合う会)が開催されたこともあり、その折に少し足を伸ばして、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』のロケーションともなっている真備町周辺(横溝正史疎開宅のある近辺)も訪れてみた。
横溝の文章は基本的に(もちろんよい意味で)分かり易くて説明的だし、描写も読んでいてはっきりとした視覚的イメージを結びやすい種類のものである。作品発表当時から現在に至るまで、数多くの映画化・TVドラマ化がなされてきたことにも、改めて納得がいく。三人称の全知の語り手という形式も、映像化に向いているのだろう。
また、金田一耕助はその強烈な外見をはじめとして、こんにちの言葉でいう「キャラ」概念に馴染みやすい人物造形であることにも気づいた。昨今では金田一耕助の「コスプレ」をして作品ゆかりの地点を巡るイベントも開催されているし、真備町を歩けば顔はめ看板、文学散歩マップ、溝口正史疎開宅の障子に映し出される金田一のシルエットなどなど、金田一耕助の「キャラ性」の強さを実感させられる事例があちこちに見つかる。これは、同じ「名探偵」である明智小五郎について明確なパブリックイメージが存在していないのとは、ずいぶん対照的だ(もちろんこのことは、作品内で描かれる明智の外貌が、時を経るにつれて刻々と変化していったことに拠るものだろう)。「金田一」を表すには、シルエットでも、あるいはチューリップ帽一つでも事足りてしまうが、同じことを「明智」でやるのはどだい無理だろう。
ただし、特徴的な作中人物の過剰な「記号化、キャラ化」や、ここ10年くらいで急速にビジネスと行政による「まちづくり」・「まちおこし」系の文脈で喧伝されるようになった「コンテンツ・ツーリズム」一辺倒の見方が、テクスト経験と場所の経験のいずれをも一面的で平坦なものにしてしまうおそれへの批評的な視点も、少なくとも学術の場にいる者であれば持っていて然るべきではないか。この辺りの論点については、「シャーロック・ホームズとコンテンツ・ツーリズム」周辺を掘ってみると、考えるための補助線がいろいろと見つかるのでは、という予感がしている。
ところで、探偵とは、微細な徴候や痕跡から推論に基づいて「謎解き」を行う者であると同時に(ベンヤミン、ギンズブルグ)、社会のなかの浮遊的な存在として描かれることも多い。後者の性質については、似た職能を担う警察が国家の権力組織に組み込まれた法の執行者であるのとは対照的だ。こういうところにも、「探偵」の魅力があるのだろうと思う。
金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件<金田一耕助ファイル> (角川文庫)
作者:横溝 正史
KADOKAWA
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金田一耕助ファイル1 八つ墓村<金田一耕助ファイル> (角川文庫)
作者:横溝 正史
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金田一耕助ファイル3 獄門島 (角川文庫)
作者:横溝 正史
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悪霊島
作者:横溝正史
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baby-alone 2025-02-14 21:21 読者になる
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hystericgrammarsdiaryの日記
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