naoxi888のアンテナ
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▽ララビアータ●10/19 03:36 ベンヤミンにおいては、鋭い直感が、不十分な哲学的裏付けを伴って提示されるので、ことさら秘教的なものになっていることが多い。例えば初期の言語哲学。それがフッサールの『論理学研究』に対して批判的であることは当然予想されるとおりだが、だからと言ってまさかのName中心の言語論、それも固有名詞中心の言語論とはいかなることか?もちろん彼が、フレーゲに始まる言語哲学的転回を知らないのは致し方ないとしても、このままでは偽なる有意味な命題の扱いすらままならない。神による命名という神学的テーマにインスピレーションを得ているにしても、このように乏しい道具立てで言語哲学に挑戦しようとするのは、どんな勝算があると思ってのことなのか?
▽うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ●10/16 13:55 近年の議論の端緒となったのはモハン・マッセンの2010年の論文である*1。マッセンがそこで問題にしたのは、視覚に伴う物体の存在感feel of presenceだ。実を言えば、その後の描写の哲学の議論では、あまり存在感を巡る論点は触れられていない印象があるが、一応紹介しておこう。この意味での存在感について理解するには、VR(バーチャル・リアリティ)と通常の二次元画像の経験を比較してみるとわかりやすい。以下の三つの経験について考えてみよう。(VRを体験したことがないとイメージしづらいかもしれないが)ところが、普通の意味での二次元画像には、この存在感が欠如している。対面でも、画像でも、オレンジはオレンジとして認識できるにもかかわらず、オレンジの写真を見ても、私たちは、「手を伸ばせば掴める」とは感じない。絵の中のオレンジは、そもそも自分と同じ空間の中にあるように見えないのだ。他方、VR内のオブ
▽もどきの部屋 education, sociology, history●09/29 02:19 2024-09-262巻〈研究編〉第2章「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス」――田中萬年先生への14年越しの卒論提出さて、『公教育の再編と子どもの福祉』【全2巻】合評会(9月29日10時~書評会申し込み_多様な教育機会を考える会出版刊行記念@日本大学文理学部)の予習用と題した連続エントリも今日で4回目、これでとりあえず打ち止めにする予定です。今日は2巻〈研究編〉の第2章として寄稿した論文「〈教育的〉の公的認定と機会均等のパラドックス――佐々木輝雄の「教育の機会均等」論から「多様な教育機会」を考える」の執筆者(=自分)への3つの質問に対する回答文です。このブログを「佐々木輝雄」で検索してもらうと16個のエントリがヒットするはずです。それぐらい多く言及してきた人物です。そのいちばん最初の日付はじつに2010年6月23日です(佐々木輝雄と「教育の機会均等」・序 - もどきの部
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