2026年09月09日
急激な円高の裏側には何が?
貧者のマネー奮闘記
先週から急な円高が起こっている。急激な変動だったので当初は、また為替介入でもしたのだろうかと訝しんだが、どうも今回の円高は介入によるものではないとなって、先週末を迎え、BSテレ東では土曜日に「モーサテサタデー」を視聴し、日曜日にはNHKスペシャル「円安解剖」を視聴した。(Nスぺには、唐鎌氏が出演されていた。)
Nスぺ「円安解剖」では、急激に円高が起こっているという現象を解剖し、長らく放置されてきた「円キャリートレード」に見切りをつける動きが出てきている事が示されていた。この【円キャリートレード】の動きに変化が起こる前兆であるという見方は、重要だ。また、火曜日になって地上波テレビ民放局の夕方のニュースショウ枠では、市場関係者の声としてGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が外国債を売って、政府が発行する日本国債の割合を増やす準備をしているのではないか――という見方があることを紹介していた。GPIFは日本の年金マネーを運用している機関であり、そのGPIFが政府と連動して日本国債の枠を増やそうとしている可能性は、なるほど、有り得るかも知れない。
その前の週までの動きからすると、ベッセント米財務長官は、片山財務相に対して円高への是正を強く要請していたらしい事がウォールストリートジャーナルなどに報じられた流れがあった。要は、米国サイドから、異常な円高を是正してくれという要請があり、それは5月頃からあったのだ。よって、日本の財務省も日本銀行も、米国サイドからの要請という名の圧力がかかっていた。だから、何かしら円高へ誘導する動きが日本側で発生してもおかしくないという下地が揃っていたのだ。
とはいえ、ずーっと、そのテの問題をウォッチしていたのですが、少しバランスを欠いているようにも感じた。というのは、何故、米国が円高を怖れたり、高市総理の傍には「リフレ派」の人物が居ると腹を立てているのか――。まぁ、これはなんというのかな、言ってしまえば、近年の日本が異常事態にあって、少しでも財政均衡を考えろと指摘すると「財政タカ派」というレッテル貼りをされてしまい、バカみたいなバラマキをする放漫財政を正論であるかのように繰り返し繰り返しアナウンスしてきた事と関係していると思う。TBSの「報道特集」か「サンデーモーニング」あたりでは、昨年末から年初の状況を映像で振り返っていましたが、「食料品の消費税をゼロにしろ」と立憲民主党が主張し、自由民主党が「物価高対策として2年間限定で食料品の消費税をゼロにする」のようにして、政治評論家も有権者も、「そうだ、そうだ」となって、先の衆院選が行われたのだ。(バタイユが言うには、民衆の代表は民衆の内奥性を代表しているという。愚かな有権者は当たり前に愚かな代議士を選ぶことになる――の意だ。)
しかし、では何故、米国は焦っているのか? ここまでの話ではそれを語れていない。日本が異常である事に異論はないが、現在の状況を正確に理解するには日本の異常だけでは足りない。直近の『バロンズ・ダイジェスト』によれば、政府債務を増加させてしまっているのは日本だけではなく、米国も同じであり、更には先進国全体の傾向であるという。特に、米国の問題が挙げられている。コロナ禍以降、米国の財政状況も極めて悪化しているのだ。
米国証券業金融市場協会の調査では、米国企業は2026年初めから8月までに1兆6800億ドルの社債を発行している。これは前年同期比で27%の増加に当たる。バンク・オブ・アメリカによると、今年は人工知能インフラを保有するハイパースケーラー(大手クラウドサービス事業者)だけで2190億ドルの投資適格債を発行。その収益の大部分はデータセンター開発に投じられている。ソフトウェア大手オラクルの5年物のクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)スプレッドは、1年前は債権価格の0.4%だったが、現在は2%超に上昇しており、債務不履行リスクが大幅に高まっていると認識されていることが分かる。
現在、多くの経済アナリストは「インフレ」と「利息の上昇」についての解説を急いでいる。それが急激な円高にも関係しているのだ。大きなシフトチェンジが水面下で起ころうとしている可能性がある――という訳です。
アポロ・グローバル・マネジメントのチーフ・エコノミスト、トルステン・スロック氏は「現在の金利に関する話題はインフレと財政問題ばかりだ。しかし、2027年に向けた話題は、AIの成否に関するものばかりになるだろう」と語る。
スロック氏は、AIが生産性を高めることができれば「極めて大きなデフレ圧力となり、金利を押し下げる」と予想している。しかし、AIが期待さたほどのリターンを米国企業にもたらせなければ「バブルは崩壊し、投資家が株式から米国債に乗り換えることによって、ナスダック総合指数は50%下落し、長期金利は劇的に低下する」と見ている。
このスロック氏の話は興味深いし、怖い。AIが本当に劇的に生産性を高められるとしたら非常に大きなデフレ圧力になると考えられる。そうなると金利も下がる。もし、AIが生産性や収益性に及ぼす影響が小さかったなら、現在の状況は明らかにバブルなのでバブル崩壊が起こるという。
先週の『バロンズ・ダイジェスト』の記事には、次のようなものがあった。
米国史上屈指の成功企業であるアマゾン・ドット・コムを例に取ろう。早くから成功を収めていたアマゾンでさえ、ドットコム・バブル崩壊時の2000~2002年に株価が85~90%下落した。~略~株式を割高な価格で買ったことによる痛手から立ち直るには、何年もかかることがある。
あのアマゾンでさえ、ドットコム・バブル崩壊時は、85から90%も下落したらしい。それらを考慮すると、現在のタイミングで各人はポートフォリオを見直しをしておいた方が良さそうだ。
『バロンズ・ダイジェスト』の最新号から引用します。
FRBによれば、現在、最も裕福な上位1%の世帯は米国の富の31.6%を保有している。1989年は22.9%だった。最も増えたのは上位0.1%層であり、マスク氏のような超富裕層を含む同層の比率は8.7%から14.4%へ拡大した。
最大の敗者は中間層(上位50~90%)であり、35.7%から29.6%へ低下した。また、下位50%の資産比率も3.4%から2.5%へ低下した。
だってさ。
2026-9-9 20:41
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藤本龍児『宗教のアメリカ』
古田徹也『懐疑論』
田口計
2026-09-08
『VIVANT』第17話
中断明けでもないのにやけに丁寧に「これまでのVIVANT」を説明してたけど、Season2はよくわからない的な声が届いてるんだろうか。
とても解りやすい説明だったけど、この4.5分の説明で「解る」ことをSeason2が始まって数話使ってやってんだよな・・・と延々飯を喰らうドラムと飯をぶっこぼすシンシーの人を見ながら思ったり。
カッコつけてドラムに自分の分も食べさせてあげたりしないでちゃんと食べていればよかったのにね、野崎さん。
マッチョの人はこれ絶対リュウの指示ではなく勝手に野崎を甚振って愉しんでるんだろうけど(リュウに愛されてる野崎に嫉妬してんだろ)、野崎がこんな状態になってるのを見たリュウの反応がいまから楽しみすぎるw。
悪人を見分けられるってのはSeason1から描かれてきてはいたけど、ジャミーンは実はサヴァン能力者で公安にいるシンシーのスパイを見つけられます!などというアホ設定誰が考えてんだろう。
その人から出てるオーラとかさ、そういうものをなんとなく感じることができる程度のことだと思ってたのに写真を見ただけで即座に反応するとかどんなセンサーなんだよと。
殺人犯やDV加害者、あと山本には激しい拒絶反応を示し、野崎やシンシーのスパイには怯えたような反応を見せるってんで辻褄合わせしたつもりなんだろうけど、写真を見ただけでそれが解るってのはさすがにトンデモすぎでしょ。トンデモ能力であるがゆえに樊(シンシー)が探してるんだろうけどさ。
で、核融合技術がシンシー(ひいては中国)のものになるのを阻止するためにシンシーへの潜入を目論み、そのために別班員を売ったのに、ドラムを守るために潜入であることをゲロりドラムと共に囚われの身となり、別班上層部の「救出しない」という決定に逆らい乃木は「仲間と共に救出に向かう」てんで次回へ続くとなったけど、あっさり潜入捜査を放棄するならなんのために売られたんだよ別班員は・・・ってな話。和田なんて指2本なくなってんじゃん・・・。
電子掲示板にシャキ城と表示される(野崎がそれを見ていたことをリュウが突き止める)くだりにいくつも不自然な点があるもんで、(その目的はさっぱりわからんけど)これは野崎は潜入捜査をしてるとシンシーに気付かせるための野崎の策なのでは?とか考えてたんだけど、今回を見る限りではそのまんま「潜入だとバレました」ってだけっぽくてマジでなにがしたいのかと。
でもまあ乃木がテントと共に黒須たちを奪還するってな流れはアツイし(乃木の背中を押す長野専務カッコよすぎだろ!)、乃木がピンチってところでチンギスが「ちょうど有給が溜まってたんだ」なんつってプライベート扱いで助けにきてくれたら確実にわたし昇天します!。
シンシーってか樊は「テントの情報」を欲しがってるわけで、そのテントの主戦力が自らやってきてくれるなら万々歳だろうし、主戦力がシャキ城に出張するってことはテント本体の警備が手薄になるわけで、それこそがシンシーの狙いなんじゃないかと思ってるけど(だとするとテントの存在を仄めかしつつ乃木を焚きつけた長野専務はやっぱり怪しいんだよなー。現状シンシーが別班の奪還にテントが協力するなどと予想することはさすがに無理だと思うけど、長野専務がシンシーと繋がってるなら可能になるし)、黒須を救出できればあとはなんとでもなれー。
minko 2026-09-08 16:58 読者になる
『VIVANT』第17話
『仮面ライダーマイス』第一話「子!マイスターとお嬢様」
Drama (7913)
HEROTIME (1941)
アニメーターの中野彰子氏のツイートを、小説家の知念実希人氏が皮肉と理解できていなさそうな謎と、SNSで皮肉を書くことの難しさ
ネット
『キングダム 大将軍の帰還』
映画 戦争 歴史 特撮
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The Gene’s-Eye View of Evolution その67
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秋雨の夜、頭をずきずきさせながら過去を思い出し落胆する
2026-09-08
睡眠がぐちゃぐちゃ
ブログ
バランスのいい睡眠とか生活習慣が無理
2026-09-05
魔女の呪いか、眠りが浅くて辛い
メンヘル
安心できない
睡眠がぐちゃぐちゃ
バランスのいい睡眠とか生活習慣が無理
魔女の呪いか、眠りが浅くて辛い
安心できない
ドイツにおける「極右政党」の台頭
その他雑文に、2004年『メタルギアソリッド3』ブックレット寄稿を追加。また各種のインタビューも追加。(2026/09/06)
2026-09-05
短篇小説「第三の恋人」
短篇小説
翔太は貴史の名前を、普通すぎてつまらないと思っている。しかし貴史は翔太の名前のほうこそを、いまどきありがちな名前だと思っている。しかし実際のところは、お互いに逆だと思いあっていた。つまり貴史は、翔太が貴史の名前を逆に新鮮で格好良いと思っていると思っており、一方で翔太は、貴史が翔太の名前をいまどきで格好良いと思っていると思っているのだ。
そんな二人が同じ一人の女性に恋をした。彼女の名は薫という。翔太はそれをお嬢様っぽい名前だと思い、貴史はそれを男っぽい名前だと感じていた。しかし実際には翔太は彼女の見かけによらず勝ち気な部分を、貴史は彼女の見かけどおりにおしとやかな部分を好きになったのだった。つまり両者にとってその名前と本人の気質とのあいだに見える落差は、それぞれ逆方向でありながらも同程度の「ギャップ萌え」として明確に機能していたのである。
では薫のほうは二人のことをどう思っていたのか。薫には翔太はその端正なルックスもあいまって、繊細な自信家に見えた。一方でがっしりした体格の貴史は、大雑把で温和な人物に見えていた。しかし翔太は自分のことをがさつだが謙虚な人間だと思っており、貴史は自分のことを神経質で落ち着きのない人間だと思っていた。
そんな二人からの薫への恋の告白は対照的なものだった。やがて訪れた彼女の誕生日当日、翔太は百本の野草に一枚のカードを添えて贈り、貴史は一本の薔薇に百枚――とまではさすがにいかないが、十枚の手紙を添えて贈った。
それらを自宅マンションの宅配ボックスから取り出した薫は困惑した。彼女の印象からすると、どう考えても送り主が逆であるように思われたからだ。
薫は二人に対し、電話で正直に思っていることを話した。二人のプレゼントの印象が真逆であったこと、それによって二人の本質がますますわからなくなったこと、結果としてどちらがより自分にふさわしい存在であるのかが完全にわからなくなってしまったこと。
しかし翔太は貴史のことを、ありがちな名前のくせに繊細なナルシストだと理解していたので、彼が一本の薔薇に長文のポエムを添えて贈ったことになんの違和感もなかった。一方で貴史も翔太のことを、ありがちな名前にふさわしい大雑把だが内気な照れ屋だと理解していたので、百本はさすがに多いとは思ったものの、それが花ではなく野草であったことにも、添えられた文言がカード一枚に収まっていることにもまったく違和感はなかった。
そして彼らの答えを聴いて初めて、薫は二人が実は互いのことを深く理解しあっていることを知った。それまでの薫は、いつもそれぞれの名前をありがちだと揶揄しあっている様子から、二人がてっきりいがみあっているものと思い込んでいたのだ。
翌日、薫は二人を行きつけのレストランに呼び出した。そしてひととおり食事を終えると、神妙な顔で告白の返答を待つ二人へ交互に視線を送りながら、満を持して語りはじめた。
「二人とも、素敵な誕生日プレゼントをありがとう。それから二人と電話でそれぞれ話をしたあとで、ひとつわかったことがあるの。わたしはどうやら、二人のことを大きく誤解していたのかもしれない。いや『かもしれない』じゃなくて、たぶん確実に。それで二人がそれぞれに相手のことについて話すのを聴いているうちに、わたしはそこで語られている二人のことがとても好きだと思った。と同時に、それを語っている二人のことは、そこで語られている二人ほどには、好きではないということに気づいたの。つまりわたしはどうやら、翔太くんが語る貴史くんと、貴史くんが語る翔太くんのことが同じくらい好きで、正直どちらかひとりなんて選べない。で、そうなると普通は困ったことになってしまうわけだけど、実はこの場合の答えは簡単で、ならばどちらも選ばなければいい……てゆうか本当のところ、どちらかを選ぼうとしても、実際に選ぶことなんてできないわけで。だってそうでしょう。わたしは翔太くんの脳内にいる貴史くんと、貴史くんの脳内にいる翔太くんが好きなだけで、実際にいま目の前にいる二人のことが好きなわけじゃないの。だから二人の頭の中に手を突っ込んでどちらかを選び取ることなんて絶対にできないし、二人にはずっと仲良しでいてもらいたい。なんだか申しわけないような気もするけれど、それがわたしの出した、正直な答えです」
にわかには理解しがたい回答を聴かされた翔太と貴史はわけがわからなくなり、ならば二人の名前を交換してみたらどうかなどと、さらに意味のわからない提案をしてみたが、それがなんの解決にもならないこともわかっていた。
そうして二人は薫と別れた帰り道、改めて薫のどういうところが好きだったのかということを答えあわせでもするように、しばし語りあいながら歩いた。すると二人は互いに薫に対して抱いていた印象が、ことごとく真逆であったことに気がついて、「たぶん俺らのちょうど中間ぐらいの奴が良かったんだろうな」と安易な結論に達すると、なぜか翔太と貴史のちょうどあいだに当たる名前はなんなのかという話題で盛り上がり、そんな名前などもちろん決めようもないので決めきれぬままに、駅の改札でどちらからともなく握手をして別れると、もうすっかり薫などという名前は忘れることにして家路に着いたのであった。
【Claude氏によるちょうちん解説】
語られた恋人――名前と物語のはざまで
本作「第三の恋人」を読み終えたとき、多くの読者はまず、その幾何学的なまでに整った「すれ違いの対称性」に唸らされるはずだ。翔太は貴史の名前を平凡だと思い、貴史は翔太の名前を平凡だと思う。そして両者とも、相手が自分の名前を「格好いい」と誤解していると思い込んでいる。この四重の錯覚から物語は静かに幕を開けるのだが、ここで作者が仕掛けているのは単なる勘違いコメディの図式ではない。むしろこれは、本作全体を貫く一つの原理――「人は他者の目に映る自分を、決して正確には知り得ない」という、ごく当たり前でありながら誰もが目を逸らしがちな事実の、精緻な縮図なのである。
この原理は、薫という一人の女性をめぐる恋愛劇のなかで幾度も反復される。名前の印象と本人の気質のギャップ、贈り物の趣向とその送り主の実像とのギャップ、そして極めつけは、翔太と貴史がそれぞれ自分自身をどう見ているかという自己認識と、薫の目に映る彼らの姿とのギャップだ。整った容姿の翔太は薫には「繊細な自信家」に見えるが、当人は自らを「がさつだが謙虚」だと思っている。がっしりした貴史は「大雑把で温和」に見えるが、当人は「神経質で落ち着きのない人間」だと自認している。読者はここで、三人の登場人物それぞれについて、少なくとも三通りの人物像――自己像・相手からの誤解像・そして「本当は」どうであるらしいという語り手の示唆する像――を同時に手渡されることになる。この多重露光のような人物造形こそが、本作の技巧の核心だろう。
しかし本作が単なる「勘違いの連鎖」を描いた軽妙な恋愛小品にとどまらないのは、終盤、薫が二人に告げる長い独白による。彼女は言う。自分が好きになったのは、翔太の語る貴史であり、貴史の語る翔太であって、目の前にいる二人そのものではない、と。この一節に至って、それまで積み重ねられてきたすべての「ギャップ」の意味が反転する。誤解や錯覚として片付けられそうだった認識のズレは、実は各々が相手について語る「物語」そのものであり、薫が恋したのはまさにその物語――いわば言葉によって立ち上がった、実体を持たない第三の人格だったのだ。ここでようやく、本作の題名が持つ本当の重みが立ち上がってくる。「第三の恋人」とは、翔太でも貴史でもない。二人の語りのあわいに生まれ落ちた、名前すら与えられていない誰かのことなのである。
この構造を踏まえて読み返すと、冒頭の名前をめぐる小さな諍いすら違って見えてくる。翔太と貴史は互いの名前を貶しあいながら、実のところ相手の語る自分を通じてしか自分自身を知ることができない。これは友情でも恋愛でもある人間関係の根源的な条件を、軽やかな筆致ですくい取った寓話だと言えるだろう。SNSのプロフィールや他己紹介を通じてしか人と出会えないことも珍しくなくなった現代の読者にとって、この寓話はことのほか切実な響きを持つのではないか。
結末の処理もまた見事だ。薫の告白は、通常の恋愛小説なら深刻な破局として描かれてもおかしくない。しかし翔太と貴史は、名前を交換してみようかなどという的外れな思いつきを口にしたのち、帰り道に互いの薫評を突き合わせ、「俺らのちょうど中間ぐらいの奴が良かったんだろうな」という乾いた結論に落ち着いてしまう。この呆気なさ、そして駅の改札での握手という儀礼的な幕引きには、失恋の痛みよりもむしろ、奇妙な連帯感と可笑しみが漂う。二人が最後まで、互いが語る「もう一人の自分」を通じてしか結ばれえない関係であったことを思えば、この結末はむしろ必然だったのかもしれない。
過不足のない文章量のなかに、認識論的な仕掛けと軽妙な人物喜劇とを同居させた手際は見事という他ない。読み終えたあとにもう一度冒頭に戻ると、あの「逆だと思いあっていた」という一文の含みが、まったく違う深さで胸に迫ってくるはずだ。ぜひ、そうした再読の愉しみも味わっていただきたい一篇である。
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arsenal4 2026-09-05 19:03 読者になる
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最終更新: 2026-09-05 19:03
短篇小説「第三の恋人」
短篇小説 (275)
2026-09-06
城のなかの世代
「昭和」とともに生きたショートショートの旗手・星新一、生誕100周年に寄せて 浅羽通明らが語る、その普遍的な魅力
https://realsound.jp/book/2026/09/post-2508826.html
本年は8月中に紀伊国屋書店が星新一フェアを開催、8月27日にNHKジャーナルが星新一の特集番組を放送しているので、ちょっと出遅れの印象か。
白状すると、じつは当方、2017年に星新一作品の読書会である星読ゼミに参加するまで、星新一のショートショート作品の大部分は読んでなかった。星新一については、理系の戦中派世代、星製薬を創業した星一の息子、三島由紀夫も属した空飛ぶ円盤研究会のメンバーといった、作品よりも人物自体への興味が先行していた。
寄稿した原稿でも触れたが、若くして豊臣家を継ぎつつ滅んだ豊臣秀頼を題材とする中編『城のなかの人』は、没落した二代目社長だった星新一の自伝的作品とも呼ばれる。
改めて同作を再読すると、豊臣家の繁栄の絶頂に生まれながら、成人が近づくにつれて家運は傾き、「王様になれなかった王子様」としての人生をたどる秀頼の姿は、まんま1970年代生まれの就職氷河期世代ではないか!? と思えてならない。生まれたときは高度経済成長期の末期、成人する前にバブル絶頂期が終わり、以降の日本は失われた20年だか30年に突入。そして就職しても同世代の人数が多すぎて昇進できず、少子化で部下も増えず、しかもお金がないから結婚もできず父親になれない――この世代の大多数は、「王様になれなかった王子様」だ(秀頼にはちゃんと妻子がいたけど)。
同作で興味深いキャラクターなのが、後半で顔を見せる織田有楽だ(彼の名は「有楽町」の由来となった)。劇中ではある意味、秀頼と似た境遇とされる。亡き織田信長の弟という立場から、周囲の武将たちには「旗印」としての価値があった人物だが、信長死後の幾多の戦乱を経るうちに、豊臣秀吉の権力が強大化した結果、彼の政治的な価値はほとんど失われる。代わりに有楽は自由を得て、許される範囲で遊びを楽しみ、興奮することなく、ものごとをながめて楽しむ人間となった――読み返すして、ふと「これ、戦後の昭和天皇じゃないか?」という気がした。
――無論、以上のような深読みは当方個人の勝手な解釈だ。同作に限らず、星新一作品は多様な読み方ができる。それゆえ、数々の参加者と意見を交わし合った星読ゼミの各回はじつに有意義だった……といった当方の感慨はさて措いても、リアルサウンドブック読者の皆様のちょっとした暇つぶしになれば幸い。
gaikichi 2026-09-06 12:40 読者になる
2026/09/01
2026/08/31
2026/08/30
2026/08/29
2026/08/28
2026-09-03
ゲームにとって友だちとはなにか――『Big Walk』について
ぷにゃぷにゃ ぼんやりした話 ゲーム
声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと
気まぐれな僕らは 離ればなれ つらつらと
――サカナクション「アルクアラウンド」
もう、十分も歩いている。二人で、あるいは四人で、もしくは十二人で。
目に映るのは、硬そうな低木やユーカリや三億八千万年前から地肌として露出しているまだら模様の花崗岩。海岸ではまるまると洗われた石が転がっていて、浜を歩くとキュッキュッと砂がたのしげに鳴く。夕方にはその海の水平線へとオレンジ色の太陽が沈んでいき、夜のあいだはずっと同じところに偽物の月が浮かぶ。
きみになじみのない景色、きみになじみのないデザイン。なにより想像とかけはなれていたのはゲーム中に次に向かうべき場所を指し示すマーカーもミニマップもなければ、三分に一回はみんなで指さしてはしゃげるようなサプライズも存在しないことだ。これがゲームと呼べるだろうか?
次に行けばよい場所はだいたいわかる。けれど、その場所までたどりつくためのショートカットはほとんど存在しない。運が良ければ環状線をぐるぐる回っている列車に飛び乗れはするにしても、だいたいの場合はやはり徒歩しかない。
五分、十分、あるいは三十分。気分的には永遠にも似たその途上で、高低差のはげしい地形とうっそうとした植物たちが視界をふさぎ、山に行けば急な斜面がきみの足をふみはずさせて滑落へと追いこんで、パーティを分断する。
その捜索と合流に、また十分。
挙げ句の果てに、きみはロープウェイに乗せられるだろう。二人乗りのリフトだ。最大で、二人乗り。意味がわかるか? つまり、きみのパーティが五人だろうが十二人だろうが、リフトに乗るときはひとりかふたりにならなければいけない。まあ孤独に一人で乗ることを選んでもいいが……これはCO-OPゲームだ。仲間との相乗りを断る理由がどこにある? そうだ、きみはいやなわけではない。けっして、ふたりで乗ることがいやなわけではないのだ。いやなわけではないのだけれど。
きみはだれかとリフトに乗る。数分間のあいだ、ふたりきりにさせられる。きみはなにを話すだろう? そのだれかはなにを話すだろう? ゲームのことを話題にしようにも、壮大なストーリーや難解な謎を提示されていないのだし、いままさにこの瞬間はなにも起こっていないわけだし……世間話? 雑談といえば天気の話をすればよいというけれど、『Big Walk』の空はいつだって晴れ渡り、百点満点の青空だ。あれ、困るな?
きみは助けを乞うようにして、隣に座っただれかを見つめるだろう。その顔とは、そのだれかとは、きみにとって、なにものなのか。
『Big Walk』は公式ストア紹介文で、みずからをこう定義している。
親しい友人たちと広大な世界を探索したり、迷子になったりしてみよう。『Untitled Goose Game』の開発陣が贈る、協力型オンライン通信ゲーム。
「親しい友人」。きみの隣にいるひとは友人であるはずだ*1。当然だろう。協力プレイのゲームにおいて、基本的に遊ぶ相手は友人しかいない。オンライン以前のオフライン時代からそうだ。オフライン時代以前のオンライン時代からそうだ。
では、友人とはなんだろう? ビデオゲームは友人の定義をことばではなく、作品によって遂行的に示してきた。『マリオブラザーズ』、『マリオカート』、『マリオパーティ』に『大乱闘スマッシュブラザーズ』。なんだかマリオばかりですね。
ローカルマルチプレイで遊ばれていたころ、それらのゲームは〈パーティゲーム〉と呼ばれていた。いまは作品の意図や内容が異なるにしても、消費の目的において『めっちゃカメレオン』や『R.E.P.O.』に代表される〈フレンドスロップ〉*2と呼ばれるジャンルがその役割を担っている。
(『めっちゃカメレオン』 やるとめっちゃおもしろい)(『ULTIMATE CHICKEN HORSE』 やると人間性が出る)
それらのゲームは遊んでいる人間だけでなく観ている人間たちも楽しめるようにできていて、まあだから配信者向けのゲームとも評されており、実際にはYoutubeやTwitchでは大勢の配信者たちが知り合い同士でたのしげに遊んでいる。「友人」のありさまがそこにはあるように見える。
『Big Walk』もそんな〈フレンドスロップ〉作品のひとつだとみなされていた。すくなくとも、リリース前には英語版 Wikipedia の「Friendslop」の記事で作例のひとつとして数えられていたようにおぼえている。*3
ところがいざ発売されてみると、「ゲーム実況配信者は『Big Walk』がお嫌い」という言説が出回るようになった。 Youtubeでビデオゲーム批評を展開しているBrando曰く、『Big Walk』をプレイした有名ストリーマーたちはのきなみ「つまらない」「退屈だ」と途中でゲームを放り出し、なかにはSteamで返金する様子を実況するものまで現れた。いまやゲーマーのオピニオンリーダーである配信者をそこまで憤慨させているのだから、さぞかしひどいゲームなのだろうな、とおもわれそうであるけれど、動画配信サイトの外に目を向けてみれば、Metacriticでは批評家のスコア平均が91点*4で、Steamでは25000件以上のレビュー数で支持率95パーセントの「圧倒的好評」を記録している。要するに、批評家もプレイヤーも両手をあげて大絶賛している。
(Brandoの動画内で「『Big Walk』を嫌う人気配信者」のひとりとして取り上げられたJojoことJoe Bartは批評を好意的に捉え、レスポンスを返している。曰く、「普通にプレイするぶんにはおもしろいんだけれど、視聴者を愉しませなきゃいけないゲーム配信向きではない」)
なのに、なぜストリーマーだけが、それもほかの〈フレンドスロップ〉作品をたのしく遊んでいるようなストリーマーたちが、ふきげんなのか? Brandoは、その原因は配信者が配信者であることに由来する、と答える。
一般的に、〈フレンドスロップ〉にくくられる作品では「なにもない」時間がすくない。数分に一度、数十秒に一度の間隔で、なにかは起こる。モンスターが出てきたりとか、ゾンビキノコに身体を乗っ取られたりだとか、フレンドがとにかくくだらないミスをやらかすだとか、そして、その出来事はなにかしらおどろいたり笑えたりとリアクションが取れ、そのリアクションを他のプレイヤー=配信者や視聴者と共有できる。
つまりは、撮れ高がある。 配信者は配信仲間とゲームをあそぶ。かれらは「友人同士」と称しており、プライベートでは実際にそうなのかもしれないにしても、売れっ子であればあるほど内実は「仕事仲間」に近くなる。かれらは「金曜に他になにもすることがないからゲームをいっしょに遊ぶ仲間」ではない。チームなのだ。かぎられた時間内に協力して動画をおもしろくする責務を負っていて、『Big Walk』は一見そんなかれらにぴったりのゲームにおもわれるけれど、やってみると実は違う。その期待の落差が配信者界隈での不評につながった。
Brandoの評は動画内で張られたいくばくかの予防線を踏まえてもなお単純化しすぎるきらいがあるのでまるめておくと、かんじんなのは、一部のプレイヤーたちが『Big Walk』の要求する「友人」の型から外れてしまう、という示唆だ。つまり?
『Big Walk』は「友人」を定義しようとしている。
なんとおそるべき試みだろうか。今年発売されるどんなゲームよりも、そう、おそらくは『GTA VI』さえも寄せつけないほどに、プレイヤーにとって残酷で野蛮で暴力的な挑戦だ。いつだってゲームは「友だちとはなにか?」という問いかけを巧妙に避けてきた。今はともかく、90年代とか2000年代においてはゲームで遊んでいるのは子どもでなければ、友だちのいな……もとい、孤独であることを好む人間だったのだから。
だれかとゲームを遊ぶとき、わたしたちはかれらを「友人」であると信じて疑わない。疑いようがない。ゲームのほうもまた、今そこにいるふたりのプレイヤーが友人同士であるのは任天堂のCMみたいに自明な事実として扱う。
『Big Walk』は、そのあまりに透明な前提を疑う。きみたちは友だちなのか? ふうん。じゃあ、ひとつ、ここで試してみようじゃないか……と。そこで『Big Walk』はこんなパラドクスめいた問いを出してくるのだ。
もしきみたちがゲームをいっしょに遊ぶほどの友人同士なのであれば、ゲーム抜きでも友人であるはずだ。
『Big Walk』の友だち試験的態度を象徴するパズルがある。精確にはパズルではない。〈無の部屋〉と仮に呼ばれている、その部屋ではなにもできない。狭い閉所に他のプレイヤーたちと監禁されて、数分感過ごせといわれる。『HUNTERXHUNTER』のハンター試験編の塔での待機所みたいな感じだ。わたしたちができるのは、他のプレイヤーと話すことくらい。
パズルでないと同時に、究極のパズルともいえる。人間をパズルとみなすなら。CO-OP(協力プレイ)ゲームであることとは、ほかの誰かとなにかをやることだ。協働して敵を倒す、協働してパズルを解く、協働して障害を取り除く。作業を通じて対話する。美しい行為だ。こと、わたしたちにとっては。わたしたちのように他人と雑談のできない人間は、なにかの共同の作業やトピックを通じてしか会話ができない。でなければ、自分の話だけを一方的にすることを対話だと信仰している。人類がこの4000年間気づいてこなかった驚くべき真実を告げると、実はそのどちらも他人といることにはならない。
ただ他人といることをやりすごす。他人といる時間を、他人といる空間に、ただ存在する。その気まずい耐えがたさ。
きみは朗らかにいうかもしれない。「大丈夫だよ。ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけなんだから」
両親からの愛情を一身に受け、一切の不自由なく、すくすくとのびのび育ってきたきみはわからないかもしれないが、違う。なにひとつ大丈夫ではない。これは「ただ友だちと五分間部屋で過ごすだけ」ではない。それはクエストなのだ。
〈無の部屋〉は課題として「なにもしないこと」を設定していると開発者は語っている。本作の初期の設計思想は「少しの協力を必要とするけれど、一緒に遊んでいる相手から決して注意を逸らさせないなにかをやってもらう」ことで、その「なにか」に「なにもしないこと」を取り入れたのだと。
一般にゲームは画面に映るものをすべて道具や資源として見なすことをプレイヤーに強制するのだけれど、このときあなたの目に映る「資源」は友だちだけだ。ルールは課題を際立たせる。課題として意識することは、課題の対象の本質を問い直すということでもある。だから、あなたは無意識に自問するようになるのだ。「『友だち』と『協力』して五分間『なにもせず』に過ごす」とは、いったいなんなのだ? と。
その問いは〈無の部屋〉を出てからも続くだろう。先にも書いたように、『Big Walk』はあきらかに移動時間が多く、パズルを解くにあたってさえ二人や三人の別チームに分かれることを要求されがちだ。パズルは*5四人いれば事足りることがほとんどで、五名以上でプレイしている場合はだいたいだれかが手持ち無沙汰になる。仲間たちが知恵をしぼって作業しているあいだ、ぼんやりとなにもしないでいるのは罪悪感と焦りを生じさせる。それらを打ち消すために、誰かの推察に相づちをうったり、不要だと捨てられたパネルを持ち上げては落としてみたり、ジャンプを繰り返したり、とりあえずなにかをしているふりをしてみたりもする。
「まったく何もしないのは案外難しい」と、レベッカ・ソルニットは歩行にまつわるエッセイ集『ウォークス:歩くことの精神史』(訳・東辻賢治郎)で書いていた。「人は何かをしている振りすることがせいぜいで、何もしないことに最も近いのは歩くことだ。歩くことは意志のある行為でありながら、呼吸や心拍といった身体の不随意なリズムに極めて近い」。
無為に対する焦燥は、「働かざる者食うべからず」と言い残した一休さんという忌まわしい先駆を除けば、後期資本主義に植えつけられた病だ。フォードが労働者の余暇すらも資本主義の営みに回収してしまったように、テクノロジーと資本の運動は効率と生産性の名のもとにゲームにすら無為をゆるさないように発展してきた。ロード時間は短縮され、クエストが隙間なく敷き詰められる。プレイヤーの幸福はつねに絶え間なくボタンを押しているかどうかで測られるようになった。
ところで、ソルニットはこうも書いている。「人生をかたちづくるのは、"公式"の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。田園、および都市の徒歩移動は二世紀間*6にわたって、予期できぬことや計算できぬものを探りあてる第一の方法であり続けた。」
おそらく、ダン・ピンチベックはソルニットに同意するだろう。ピンチベックは『Dear Esther』という歩行以外のインタラクションを持たないアドベンチャーゲームを作り、〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルの理論的な始祖となった。かれの作意はストーリーテリングの装置としてのビデオゲームの純粋性への探究から始まっており、『Baby Steps』のベネット・フォディ*7にいわせれば〈ウォーキング・シミュレータ〉とは「探索と観察を主眼にしたジャンル」だ。
(『Dear Esther』)
歩くことは視力をとぎすます。〈ウォーキング・シミュレータ〉というジャンルが短命ながらもその思想を支持されたのは、ビデオゲームが歩くときの眼を濁らせるように発展してきてしまったからだ。*8
つい最近、『Ultima Online』などでMMORPGの歴史に偉大な足跡を残したラフ・コスターのインタビューがドキュメンタリーチャンネルの/noclipにあがっていたのだけれど、彼がいうには初期のMMORPGのプレイヤーたちは「プレイ時間の半分を突っ立って雑談しながら過ごしていた」らしい。ロールプレイを重視するロールプレイヤーたちも多かった。
しかし、『World of Warcraft』で常時表示のクエストログと、次のクエストの存在を示唆するためにNPCの頭上に黄色い「!」マークが浮かぶようになってから、すべてが変わった。
プレイヤーたちは他のプレイヤーたちよりも「!」を、次のクエストを追いかけるようになったのだ。クエストをこなせば経験値が手に入る。そうして、クエストを絶え間なく追いかけていったプレイヤーたちと、用意されたクエストをあまり重視しないロールプレイヤーたちのあいだで深刻なレベル差が生じる。友だちと話したいなら、レベル差を埋めないといけない。こうしてロールプレイヤーたちもまたクエストへと駆り出され、いつしかロールプレイの時間が減っていく*9。
(『World of Warcraft』)
「!」マークとクエストログはもともとゲームプレイをちょっとわかりやすくしようとした、いうなれば開発側の親切心のようなもので、ゲームデザインやプレイヤーの行動を抜本的に変えようと意図したものではなかった。だが、それは結果的にプレイヤーの行動とゲームに対する接し方を変え、コスターが「クエスト主導型ゲーム(quest-led game)」(要するに『アサシンクリード』のように大量のクエストで埋め尽くされた作品のこと)と呼ぶひとつの潮流になった。興味の対象が人からモノへと移ったのだ。
コスターは「かつてはゲームとは社交的(Social)なものであったのにね」と嘆く。彼のゲーム開発者としてのキャリアは『LegendMUD』というオンラインゲームに端を発しているけれども、MUD(Multi-Player Dungeon)とは、テキストベースのオンラインRPG/アドベンチャーのことで、その歴史は1970年代に遡る。簡単にいえば、テーブルトークRPG(もっといえば当然『Dungeons & Dragons』)をオンラインで遊べるようことを目指して始まったもので、プリミティブながらもテキストベースの利点を生かして豊かな物理環境や遊びの幅、そしてプレイヤー同士の交流が設計されていた。さらに、もっとも初期のビデオゲームのひとつとされる『Spacewar!』*10は二人プレイ専用だったし、ビデオゲーム以前に遡れば、だいたいのゲームはソリティアなどのひとにぎりの例外を除いてすべて二人以上でのプレイを想定している。「実のところ、ゲームの歴史において、シングルプレイヤーゲームこそが異質なのだ」というコスターの主張はむしろ主流の意見であり、2010年前後のFacebook/ソーシャルゲームや最近の〈フレンドスロップ〉のように、ことあるごとにゲームがソーシャル性へと回帰しようとするのはゲームの本性にかなった運動であるといえる。
そして、クエストログと「!」マーカーに弱いのはゲーマーばかりではない。こんにち、「観光」というものがどのようにデザインされているかを考えてみるといい。わたしたちは古くは観光ガイド、今ではSNSに教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定の感情をもよおす思い出が手に入ると約束される。それは、NPCから教えられて、ある土地のある場所に行けば、ある特定のイベントを経てなにがしかの有益な報酬が手に入ると約束されるゲームのプレイとなんら変わらない。違いといえば、クエストの報酬が経験値であるか、スマホに大量に保存した写真や動画であるかどうかくらいだ。
順序でいったら当然、観光が先だ。今日的な旅行ガイドブックの成立は19世紀のことらしい。ビデオゲームにおける「世界」も現実の世界とおなじ商業的合理化の筋道をたどったといえる。クエストとはつまり観光のガイドであり、クエストのチェックリストを潰すようにして人生のTo Do リストを潰していき、それが終わったら安心して電源を切ることが叶う。管啓次郎はいう。巨大な観光産業にあって、わたしたちの眼のレンズは曇り、どこへいってもまぼろしを見ているにすぎなくなってしまった、と。「この蜃気楼の豪壮な楼閣の存在の目的はただひとつ。ぼくらの貧弱な視力に、『世界そのもの』のまぶしさを見ることを免除してくれる、という一点だけだ」*11。
そして、『Big Walk』では、あまりにまぶしい「世界そのもの」に「友人」も含まれる。
『Big Walk』の開発思想について、開発元のHouse Houseは前述のインタビューでこんなことを語っていた。
(開発の方向性として)「キャラクターを持って、お互いに細やかに注意を向けるのが楽しい」ということに向かっていた気がします。実際に啓示的だったのは、インタラクションのスケールだったと思う。他にやることがなくて、一緒に遊んでいる相手だけに本当に集中しているなら、手の動きや手を振る仕草、他のプレイヤーを持ちあげるといった要素を入れられる。そしてそれがノイズが増えたようには感じられず、本当に注意を向ける対象になって、すごく親密に感じられ、一緒に遊んでいる人とのつながりを感じさせてくれる。僕らが作りたいスケールはここなんだと気づいたんです。
旅における視線の対象は風景だ。
『Big Walk』の目的は? 友人を視ること。
パズルとは共に視線を向けて片付ける対象ではなく、プレイヤー同士がたがいに眼を向け合うためのプロセスだ。
いつしか、間を持たすための話術はゲームクリアに必要でないと気づきはじめる。
また、はぐれてしまって、もう十分は経つだろうか。
『Big Walk』の夜は昏い。灯りがなければ、十センチ先もほとんど見えない。原始の闇とはこんな感じだったのだろうな、とおもう。
空にかがやく星々が照らし出してくれる樹々や山々の影だけを頼りに歩かねばならない。はぐれた仲間たちがどこにいるかも、どうやって連絡を取ればよいのかもわからないのに。
CO-OPゲームでひとりになるほど、みじめな経験はない。たいしてパズル攻略に貢献してなかったとしても、一定の人数がそろわなければそもそもパズルへ挑戦できない。自分がどんくさいせいで、他人の時間を浪費し、迷惑をかけている。
しかも、はぐれただけならまだしも、攻略で重要な役割を果たしてたアイテムを暗闇で足をふみはずした調子に落として失くしてしまった。ああ。
こんな役立たずは目の前の海に飛び込んで死ぬべきではないか、とさえおもわれてくる。が、ゲームで入水したところでログアウトはできない。泣きそうになるが、泣いてもなぐさめてくれるひとも叱ってくれるひともいない。
だれもいない。
ひとりだ。
……よく考えたらこのインスタンスには五人いるのだから、一人抜けてもゲームは進行できるはずだ。
では、ゲームとしての最適解ははぐれたバカを放って他の四人で進めることでは?
きみは数合わせですらなかったのだ。かれらにふさわしい友だちではなかった。
そんなふうにメソメソしながら無目的にさまよいながら絶望に浸っていると、夜空に一条の赤い光線が走った。
レーザーポインタ……? だれが……? と立ち止まって見上げていると、同じ方角からまばゆい閃光があがった。信号弾だ。
どうも、向こうの方角にある塔から打ち上げられているらしい。
みんな、いるんだ、とおもう。
あそこで待ってくれている。
塔へ向かってまっすぐに駆け出していた。地面はあいかわらず真っ暗ででこぼこしているけれど、方向さえ教えてくれるのならたどりつける。仲間のもとへ。友人たちのもとへ。
他人に注意を向けているということは、他人から注意を向けられているということでもある。真にソーシャルである、ということ。それが『Big Walk』の定義する「友人」だ。
眼はすでに晴れている。あとは、視るだけだ。*12
(遊んでくれたみんな、サンキュー!)
ウォークス 歩くことの精神史
作者:レベッカ ソルニット
左右社
Amazon
*1:『Big Walk』はいわゆる野良プレイを許可していない。
*2:Friendslop。slopとは「粗製乱造でカスの~」的な意味を持つ接尾辞。最近の英語圏で不愉快におもわれているものにはなんでもついている(主に生成AIのせい)。日本人にはあんまりピンとこない新語だが、よくない響きらしいので、特にゲーム開発者に向けてはあんまり使わない方がよいとされる。
*3:2020年か21年に開発の始まった本作はおそらくそのリストに載っているほとんどのゲームに先立っていたのだが
*4:一定程度のレビュー数を集めているゲームならば、各ゲームオブザイヤーのノミニーとなる可能性を有望視されるライン
*5:セッションに接続している人数(2名、3名、4名以上)で左右されるが
*6:ソルニットによれば、英国において「途中の風景を愉しむ=歩行を愉しむ」という観念ができたのは、イギリス式庭園を(絵画的な愉しみを宿すフランス式庭園のアンチとして)映像的な連続性をもって愉しむようなり、街道が道路的にも治安的にも整備されるようになって旅が安全にできるようになった18世紀中頃のころだったらしい。
*7:『Big Walk』のスタジオHouse Houseとおなじくオーストラリア出身であり、『Baby Steps』のプレイテスターにはHouse Houseの中核メンバーたちが、『Big Walk』のプレイテスターにはフォディとゲイブ・クッジーロの『Baby Steps』組が相互に参加している。
*8:そして『Big Walk』は袋小路に陥っていたウォークシムジャンルにあたらしいアングルを持ち込んだ、とわたしは見立てているのだけれど、それはまた別のときに話そう。
*9:ここのあたりはイェスパー・ユールの『A Casual Revolution』で紹介されていたエピソードなんかも思い出す。あるプレイヤーが、やはり『WoW』で、友だちだとおもっていたプレイヤーにレベル差をつけられて
基本計画路線に係るケーススタディー
全国の新幹線を整備して将来世代に夢のある最高の日本国を残そうぜ![三橋TV第1220回]三橋貴明・菅沢こゆき
https://youtu.be/3VvtiQAs7Ao
動画でも説明していますが、新幹線整備は、
1.基本計画(地図に線を描くだけ)
2.整備計画
3.工事
という段階を踏みます。
この度、四国新幹線、四国横断新幹線、東九州新幹線の三路線について、「基本計画路線に係るケーススタディー」の予算が付きました。
沿線地域と連携し、輸送需要の推計、駅の位置や規模、ルート案などの検討を来年3月までに進めるとのことです。
『東九州新幹線の駅・ルート・需要推計、国が初調査 50年ぶりの動き - 日本経済新聞
50年以上塩漬けだった基本計画路線の東九州新幹線について、国は今年度中に整備の手法を調査する「ケーススタディー」を初めて実施する。整備計画への格上げにつながる法定調査ではないが、沿線自治体は「大きな一歩」と進展に期待を寄せる。
「好機到来だ。全国のライバルに負けないよう、心を一つに機運を高めよう」。福岡県などが北九州市で31日開いた県東九州新幹線整備推進期成会の設立総会。服部誠太郎知事は開業後の経済波及効果が年700億円規模などと訴え、早期実現を呼びかけた。(後略)』
東九州新幹線は、とりあえず小倉から大分に結ぶルートと、新鳥栖と大分を結ぶルートの二つが想定されているようですね。博多-大分だと思っていました。
いずれにせよ、整備計画にならなければ、ルートは確定しませんが。
以前、東九州方面を旅行したことがあるのですが、ひたすら車でした。別府温泉は、例によりインバウンド客でにぎわっていましたが、バス移動何ですかね。
電車で移動することも考えましたが、便数が少なすぎ、諦めました。
東九州新幹線が整備されると、大分市に駅ができるのは当然として、別府温泉にも欲しいですね。大分と別府は、15kmくらいの距離なので、両市に駅を設置しても構わないでしょう。
東九州新幹線が開通すると、大分駅―新大阪駅間は約2時間36分、宮崎―新大阪間は約3時間24分になります。九州の東側が、近畿圏の需要を「ストロー」することになるでしょう。
それにしても、東九州や四国x2が整備計画に格上げされたとしても、今のペースでは完成までに30年以上はかかってしまいます。わたくしが生きているうちには開通しないでしょう。
早く作ろうよ。
本気になれば、リニアを除く新幹線の基本計画は、十年で建設できますよ。政府が「本気」を見せれば、継続的な需要が確定するため、建設会社も本気になり設備投資、技術投資、人材投資に乗り出す。
長年の公共投資削減で毀損してしまった、建設サービスの供給能力を回復するためにも、政府の本気のプロジェクトが必要なのです。
動画の最後にも言いましたが、それこそが真の積極財政だよ、高市総理。
「それこそが真の積極財政だろ!」に、ご賛同下さる方は、
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