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空気を読めると過信するなかれ
Filed under: 日替わりハーゴン定食 — hala at 3:09 pm on 土曜日, 11月 3, 2007
正しい歴史的な経緯は知らない。ただ、「空気を読む」という表現が一般化してきたのは、とても最近のことではないだろうか。もちろん表現としてはずっと昔からあったと思うのだが、その言葉を耳にする頻度があがったのは、それほど前のことではないだろう。
私がよく目にしていた「空気を読め」という表現は、たとえば2ちゃんねるのスレッドの流れの中で、場の雰囲気から浮いた発言をした人間や、話題をぶった切って発言するような人間を諌めるようなかたちで「空気嫁(読め、の意)」とされていたもので、まあ2ちゃんねるの閉鎖的・身内的な雰囲気を考えれば、わからないでもない。
ところが、安倍前首相が辞職に追い込まれた際、マスメディアの報じるニュースの中で、「安倍首相は空気が読めていなかった」とするコメントが報じられるなど、この表現は急速に一般化してきたように思う。最近では「空気が読めない」ことを「KY」と略すなどということも耳にした。
しかし、こうした「空気を読む」という表現の一般化には、強い違和感を覚える。
ちょっとおかしいと思うのは、そうした発言をする人間の実に楽観的な想像力である。空気が読めない、という表現は、なんとなくその時、その場で共有されている「まあ、なんとなく物事はこういう風に進んでいくんだろうなあ」という共通認識を勝手にぶっちぎっていく人間に「それはいかがなものか」と異議申し立てをするものだ。それが2ちゃんねるの特定のスレッドや、飲み会の10人足らずの席なら、まあ理解できなくもないが、その空気を勝手に国民全体に拡大させて、勝手に全体の意見を代弁されても困る。それこそ勝手な発言であり、単に自分の好き嫌いを全体の「空気」に読み替え、虎の威を借りているだけだという謗りをまぬがれることはできまい。首相やプロ野球監督(笑)に対して「空気が読めない」と大々的に発言できる人間は、ずいぶんしあわせな想像力を保持している。しかし、それが私には不愉快だ。あなたと同じ空気を万人が吸っているわけではない。
だから、「空気を読めない」という表現が軽々しく使える気軽さがあるのは、それがその発言の主体を覆い隠してくれるからだろう。実に無責任である。
・・・別に他人のことを悪しく言いたいわけではない。私自身の発言を振り返ってみれば、「空気読めてねぇ〜」と発言する際には、ほとんどの場合、私の思う通りに物事が進まなかった場合の不満を、表明しているだけであることが多いからだ。かように空気というのは身勝手なものであり、軽々しく社会的な物事に対して「空気を読めてない」などと表現をする使う人間の言は、眉につばをつけて聞いておいておいた方がいい。
繰り返すが、誰かの「空気」は、ほんとうに自分自身の「空気」なのかどうか、吟味する必要がある。声の大きい人間の言う言葉は、そのボリュームを50%以下に絞って聞くべきである。
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鈍感さが必要なものは、けっこうある
Filed under: 日替わりハーゴン定食 — hala at 2:38 pm on 木曜日, 10月 18, 2007
よく子供の時には苦手だった食べ物が、大人になると大好物になるということがある。
それは味覚で言えば「苦み」のような 、一見さんお断り的な ところのあるものが多くて、「苦みの向こう側」(笑) にある「何か」に気づく味覚を訓練によって大人は獲得しているから、子供にはわからないものを楽しめたりする。
それはおそらく、味に対する「繊細さ」とは正反対の「鈍感さ」 のようなもので、味覚が鈍感になってくるがゆえに、色々なものを口に入れることができるようになるし、表面上の苦みを突き破った奥の「旨味」まで到達することができるようになるのであろう、と私は考えている。
ここでは、こういった味に関する問題を音楽に関するものに敷延したい。
ここ1年くらいの私の音楽上の変化といえば、10年前の自分と今を比べると、かつては絶対に聴かなかった、もしくは、耳には入れるが楽しむことができなかった音楽ばかりを、今は聴いているということだ。
具体的にいえばそれは、ミニマルなダンスミュージック(「ミニマル・テクノ」というカテゴリは、今でもあるのだろうか?)とクラシックなのだが、この一見相反するような両者は私のなかではとても似たものとして捉えられている。読解力が必要なのだ。そしてそれは、「ひたすらあらゆる音楽を聴き続ける」という訓練によってしか身につかない。
50分、4楽章にわかれ
Web 日記うぇぶ