2024年 04月 23日
(2)加藤周一『私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ』
~4月22日より続く
『第一部』『第一章 いま、ここにある危機』の『この10年の危機』、
これが分からなくって。
つまりチトーの死後すぐにユーゴスラヴィアが解体され、クロアチアと
スロヴェニアが独立し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争に至る経緯が、
分からない。知識がなさすぎて、一読しただけでは記述内容が理解でき
ないのだ。
以下、勝手に行開けして引用___
"中部ヨーロッパ"という言葉は、ドイツでよく使われる。イギリスや
フランス、西ヨーロッパではあまり使われない。
この"中部ヨーロッパ"は、すなわち"ハプスブルグ"、オーストリア・
ハンガリー帝国であり、この中にはチェコスロヴァキアも入る。
北から、プラハ、ヴィーン、ブダペスト、ザグレブまでがハプスブルグ
治下であり、文化的統一が見られる。
<お互いの交流はドイツ語です。建築の様式でも非常に似ています。
街の色彩的な面でも灰色系の建物、石の色などでも似ている点が
多い。[略]この文化圏内では料理も似ているところがある。[略]
第一次世界大戦でハプスブルグ帝国が分解して小さな国になるが、
文化的統一性はかなり残っていて、そのあとも今いった領域の外より
は中での交流に密接な関係がありました。
ユーゴスラヴィアが分解して民族紛争があって、クロアチア、スロ
ヴェニアが独立した。このクロアチアとスロヴェニアはまさにハプス
ブルグ治下です。クロアチアの首都はザグレブです。
そしてどこの国が一番先に独立を承認したかというと、それはドイツと
オーストリアです。私はそのことがユーゴスラヴィアのその後の状態、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争の口火を切っていると思います。
クロアチアとスロヴェニアの承認は、ユーゴスラヴィア分解の国際的な
公認です。だからあとはもう歯止めが利かないわけで完全に独立する。
そうすれば当然、ボスニアも独立を求めるし、またボスニアの中には
複雑な民族的構成があるから、それぞれの民族が独立を求めるという
ことになって混乱が生じてきたということです。
行きつくところ、ボスニアにおけるミロシェヴィッチ大統領の民族浄化
運動があって、残虐なことも行われたのです。しかしクロアチアには
なかったのかというと、そうではない。ツジマン首相のザグレブ政府と
いうのは、話はいろいろ複雑なのですが、浄化運動でかなりひどいこと
もしている。その典型的な例は、クロアチア政府によるクロアチア南部
でのセルビア系住民の弾圧です。[略]
ボスニアでのセルビア人たちの独立要求は民族浄化運動だからけしからん、
そのまま承認することはできないというのはやや表向きであって、もし
そうならばクロアチアだってそんなに違っていたわけではないということ
になる。
だからクロアチアが独立したいといった時すぐにドイツ、オーストリアが
承認したのは、そういう歴史的背景があるのです。それが一つです。>
(pp29-30)
___書き写してみれば、理解しやすくなるかと思ってやってみたが、残念ながら
あんまりわかって来ない。次にはナチとユーゴスラヴィアの関係を引き移そうか
と思いつつ、疲れたので次回。
この章が理解しにくいのは、"民族主義"というイデオロギーがよく分からない
からだろうか? たとえば日本語が使われ続けるなら、日本は存在すると思う。
それを使う人々の皮膚の色や髪の色や目の色が違っていようと、日本語が話され、
書かれているなら、それは日本があるということだ。
(加藤周一『私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ』
岩波現代文庫 2009初 帯 J)
Stop the Gaza Genocide
自民党裏金リスト(選挙区別一覧)___顔写真と名前の下の左側、
プロフィール図柄(?)を開けると当人の公式サイト、右側を
開けると自民党サイトの彼・彼女の紹介になる。
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# by byogakudo | 2024-04-23 21:47 | 読書ノート | Comments(0)
2024年 04月 22日
(1)加藤周一『私にとっての20世紀 付 最後のメッセージ』も読み始める
加藤周一、1919年~2008年(わたしの母と同い年だったのか)。
晩年の2000年に、単行本『私にとっての20世紀』刊行。これの
文庫版に『第二部 加藤周一、最後のメッセージ』として2006年の
講演会の記録と、2008年のインタヴューが付加されている。
『第一部 私にとっての20世紀』の『第一章 いま、ここに
ある危機』の『1999年に起きたこと』は、新ガイドライン法案
が国会で通ってしまったことについて___
< 99年に成立したこのほかの法律をみると、盗聴法にしても、
国民総背番号制にしても、政府が国民をコントロールすること
ができる広範な可能性を、政治権力に与えたということです。
[略]
国旗や国歌の話でも、それを強制しなければ、別に害はない。
しかし政府が、強制しようと思えば、法律化されているほうが
やりやすいということがある。現に強制に向かう傾向は強く出て
います。
[略]
たとえば大正デモクラシーの時代、1920年代に通った治安維持法
です。治安維持法はこれをすぐには使わなかった。しかし、それ
から10年20年経つと、それを使って言論と集会の自由を弾圧した。
これはもうファシズム国家です。その悪名高い日本軍国主義の柱の
一つは治安維持法だった。まさに時限爆弾です。できたときは大した
ことはない、使わなければ別に心配はないといわれた。誰も逮捕され
なかった。しばらくして、それが極限まで使われてひどいことになった。
1925年に成立した時限爆弾が(主として)30年代に爆発したのです。
1936年には2・26事件が起こって、その後、国民にとってはあまり
よくわからないままに、さり気なく静かに「軍部大臣現役武官制」と
いうものが復活した。
[略]
陸軍が政治を壟断したから、[略]日本は不幸な戦争の中で滅びていった
のだと、戦後説明されました。
[略]
戦後になると1952年の破防法(破壊活動防止法)がそうです。これは、
反対が非常に強かった。しかし、議会は通り、今まで全然使われなかった
わけではないけれど、少なくとも大規模に害のあるような使われ方はされ
なかった。この時限爆弾を爆発させなかったのは世論の力です。
[略]法律を政府がどう使うか使わないかというのは、それは政府も真空の
中でやっているわけではないから、世論の大きな影響を受けます。世論が
圧倒的に反対だったら、その法律をやたらに使うことはできない。
だから世論が大事。一般市民の立場から言えば、法律が議会を通って
しまっても抵抗することはできる。時限爆弾を抱えながら、これから先それ
を使わせないようにする、爆発させないようにする世論を起こすことが重要
です。>(pp16-19)
___NO!と言い続ける人々はいるけれど、TVは政権の手先が牛耳り、旧・
自民党/現・自分組の広報メディアとして、その存在を無
第24回不忍ブックストリートの一箱古本市 店主募集要項は
すでに終了しています(2024年3月18日正午の時点)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2024年不忍ブックストリート一箱古本市の助っ人さんの募集は
終了いたしました。ご応募くださった方、ご興味を持って下さった方、
たいへんありがとうございました(2024年4月19日)
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2024/04/16
みたかの今昔
土曜午後三時すぎ、寝起きの頭のまま、西部古書会館。この時間で人がいっぱい。何とか隙間を見つけ、図録の棚を回り、『写真集 みたかの今昔』(三鷹市教育委員会、二〇〇〇年)を買う。一九九〇年刊の『写真集 みたかの今昔』を全面改訂したもの。昔の野川、仙川の改修前の写真を見る。
一九五八年の狩野川台風で三鷹駅周辺が水没している写真もある。戦前戦中、仙川は何度か氾濫している。
三鷹——大正期には桑畑、戦後の昭和二十年、三十年代にもかなり大きな田んぼ、麦畑が残っていた。天文台の近くに釣り堀があった(一九六四年の写真)。京王井の頭線の三鷹台駅の古い駅舎がいい感じだった。
三鷹市、昭和三十年代のはじめ、五年間で人口が四十一%増加した。
知ってる(つもり)の町の知らない話。世の中の移り変わりを漠然と知ることで、今現在も変化の途中なのだとおもえる。
Posted by 荻原魚雷 at 9:38 午前
▼ 2024 (23)
▼ 4月 (3)
みたかの今昔
2024-03-31
永井龍男「雑文集 ネクタイの幅」講談社、1975
何しろアマゾンレビューからは閉め出されているし、読書メーターにはこの本の登録がないしするのでここに書いておく。最初のほうはいかにも身辺雑記や天気の話などが多かったが、自作解説や他の文学者の話になると面白くなる。子母沢寛が『戊辰物語』をほとんど一人で書いた話とか、企業人の伝記を書いた話とか、『庄野潤三全集』の月報の島尾敏雄の文章の話とか、小説書き以外には特に関心のない丹羽文雄とかで、人が出てこないと面白くないようである。
(小谷野敦)
jun-jun1965 2024-03-31 22:09 読者になる
永井龍男「雑文集 ネクタイの幅」講談社、1975
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2024-03-29
ふらり、観光地。
2024.3.28.(木)
ゆっくりと目覚める。久しぶりによく寝られた。
シャワーを浴びて、着替え、朝食をとりにホテルを出る。四条烏丸近辺に泊まった時には毎回前田珈琲本店でモーニングを頼むことにしている。今回も同じ。職場に向かう人々の流れに混じってのんびり店まで歩くのは京都に泊まった朝の喜びとなっている。
朝食を終えてホテルに戻り、支度を整えてチェックアウト。昨日の買い物ですでにボストンバッグは肩に食い込む重さとなっている。まずはこちらをロッカーに預けないことには動き回れない。京都駅のロッカーはまだ午前中ということもあり、すんなりと空きが見つけられた。
身軽になって地下鉄に乗る。昨日、たまたまネットで善行堂の話題を見ていた時に、今日まで村田画廊で林哲夫さんの2人展をやっていることを知った。この偶然を逃してはならじと松ヶ崎駅で下車して画廊へ。住宅街の中にある落ち着いた雰囲気の画廊。ご夫婦でやっていらっしゃるようで、気軽に声を掛けてくれる。書いた住所が横浜だったので驚いたようだった。お茶とお菓子が出てきて驚く。アットホームな場所で好きな画家の絵を見て心安らぐ。その中でパリの書店を描いた水彩画がこんなに安く買っては申し訳ないという値段で出ていたので迷わず購入する。すでに林さんの油彩のパリの書店の絵を持っているため、同じシリーズが増えて嬉しい。そういえば善行堂にも林さんが描いた小津安二郎のポートレイトが置いてあったことを思い出す。あれもいい味わいの絵だったなあ。善行堂でも林さんの絵は買えるのだった(以前にリクエストして坂口安吾のポートレイトを善行堂経由で購入したことがある)。最終日ということで林さんと会えるかなと思っていたが、午後から来るとのことなので、よろしくお伝えくださいと伝言を頼んで画廊を後にする。
天気予報アプリは午後3時過ぎから雨と告げているので、先を急ぐ。地下鉄丸太町駅で下車し、京都御所の横を歩いて鴨川近くにある誠光社へ。すでに数人のお客さんがいた。この書店も来るたびに必ず客の姿がある人気店だ。店頭の面陳棚に橋本倫史さんの新刊が置いてあった。地元でも買えるがこの本は観光地・京都で買うべきだろう。
-橋本倫史「観光地ぶらり」(太田出版)
橋本さんの本は著者自身が撮った写真がカバーに使われることが多く、この本も同じ。そしてそれらが皆いい写真なのだ。橋本作品では個人的に「東京の古本屋」(本の雑誌社)が好きで、自分で読むだけでは飽き足らず、神保町のPassageで借りている貸し棚でもこれまで4冊売っており、今5冊目が並んでいる状態だ。
会計をしにレジに行くとレジ前でオリジナルブレンドのコーヒー豆が売っており、六曜社由来の豆であると書かれていたので一緒に買う。家で飲むのが楽しみだ。
時間は正午を過ぎ、昼食をとるために京都市役所方面へ歩いて移動。京都という街が好きなのは、大通りと大通りを繋ぐ小さな通りを歩いていても、不意に小さな書店や古書店と出会うところ。東京の都心ではこうはいかない。いつの間にか寺町通に出ていたらしく、不意に目の前に三月書房の姿が見えて思わず「あっ」と声が出た。三月書房が週休7日となってからどれくらい経ったのだっけ。戸が閉まっているだけで、店も看板も以前のままだ。今でも京都に行くことを考える時にスケジュールに三月書房を入れそうになってしまう。それくらいこの店に行けなくなったことは大きな損失なのだ。編集工房ノアの PR誌『海鳴り』をもらうのはこの店で編集工房ノアの本を買う時と決めていた。今は善行堂が自分にとっての『海鳴り』の窓口となっている。
三月書房前を通り、スマート珈琲店へ。ここでスマートランチでもと思ったが、案の定店前に列ができている。諦めて新京極通へ移動し、スタンドへ行ってみる。カウンターの端の席に空きがあったので滑り込む。正午過ぎだというのに樽酒やサワーが飛び交う店内でスタンドランチを頼む。ここは観光客よりも地元民の割合が高いと感じさせてくれる店。会話の多くが地元の言葉であるのがそれを教えてくれる。隣のおじさんが50年ぶりに食べるというハムカツを「うまい。うまい。」と繰り返す。小学生の時にハムカツを食べている友達から端っこを分けてもらて以来のハムカツらしい。確かにハムカツはそんなに頻繁に食べるものではないが、50年間まったく出会わないというほどレアな食べ物だとも思われない。日本に住んでいて50年ハムカツと出会わない人生というのがなんだか不思議な気がしてしまう。
関東も夕方から雨の予報が出ており、本を抱えて雨に降られるのは避けたいので、3時の新幹線で帰ることにする。四条烏丸の進々堂で食後のコーヒーを飲んで時間調整をして、京都駅へ。
この頃からくしゃみと鼻水が止まらなくなる。花粉症の薬は飲んでいるのだが、この2日野外で花粉を浴び続けた影響が出たらしい。新幹線では読書を諦めて目をつぶり、身を背もたれに預けてイヤフォンでラジオのタイムフリー録音を聴きながら帰る。
定年退職したら、京都で1年、ロンドンで1年暮らしてみたいとよく冗談めかして言っている。しかし、暮らしてしまったら現在の京都が持っている非日常感は失われてしまうだろう。昼の本屋巡りも夜の京都散歩も僕にとっては日常を忘れさせてくれるこれ以上ないアイテムであり、この2日のために1年ストレスにまみれて働いているようなものだ。それを考えると京都はふらりと行く観光地のままにしておくのがいいのかもしれない。
なんとか雨が降る前に家へたどり着いた。
vanjacketei 2024-03-29 22:09 読者になる
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2024-03-29
Japaneseman in 京都。
2024年3月27日(水)
今日と明日の2日間休みをとって京都へ行く。
午前9時の新幹線に乗る。窓際の席を選んだが、隣は空席だったので気兼ねなくトイレにも立てるので快適。
車内の読書用に持ってきたのは森見登美彦「シャーロック・ホームズの凱旋」(中央公論新社)。舞台がヴィクトリア朝京都という設定となれば、今日の読書に丁度いい。ホームズ、ワトソン、モリアーティ、レストレード警部となじみの名前が何故か京都の地名の中で生き、行動している不思議。ホームズの下宿は寺町通221Bにある。
昼前に京都駅着。買った本を持ち帰る用の大きなボストンバックを駅のロッカーに預ける。インバウンドで溢れる駅のロッカーは使用済みの赤いライトで覆われており、諦めかけた時に一番下の小さなサイズがひとつだけ緑に光っているのを見つける。滑り込みセーフ。
電車を乗り継いで、一乗寺駅へ。目指すは恵文社一乗寺店。だが、その前に腹ごしらえと恵文社の並びの食事処へ入る。海鮮料理が売りの店のようだが、魚より肉派のこちらとしてはランチメニューから豚カツ定食を選ぶ。運ばれてきた豚カツの横には煮魚ののった小皿が添えてあった。そこまで魚推しの店なのだなと驚く。
隣の席ではお婆さん2人が、京都の池から連れさられた鴨の話題を繰り返ししている。「誰が何のために連れてったのかな」「かわいそうやね」というリフレーンを聴きながらスランプに悩む京都のホームズの出番なの
古本ソムリエの日記
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書林雜記
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黌門客
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qfwfqの水に流して Una pietra sopra
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道徳教育について
道徳教育を教える先生たちの研修会に招かれた。話をする前に「梗概」を送って欲しいと言われたので、こんなことを書いた。 私...
2024-03-05 mardi
2022年4月29日 (金曜日) 一箱古本市 | 固定リンク | コメント (1)
Merlerhila on 2022年「第22回不忍ブックストリート 一箱古本市」出品本の一部紹介(2)
2021年03月22日
「海鳴り」33号が届きました
昨年までは「海鳴り」が出たら、編集工房ノアの本の通販のおまけとして配布していましたが、三月書房は昨年末に廃業しましたので、そーゆーことはできなくなりました。うちの店では毎年200冊ほども配布させていただいていましたので、今年もお知らせだけはしておきます。
この号で一番の読み物は、山田稔氏の「同僚━生田耕作さんのこと」でしょう。2段組み14頁分ありますが、山田氏が生田氏について、これだけまとまった量を書かれたのは初めてかと思います。そのほかの内容は上記の画像をクリックしていただけば目次が読めるはずです。
「海鳴り」の入手方法は聞いておりませんが、おそらく一部の書店では無料配布するはずです。非売品なのでこれだけを購入することはできないでしょう。発行所に頼めば送ってくれるのか、送料はいくらなのかもわかりません。これはあくまでも個人的な意見ですが、発行所に何か1冊通販の申し込みをして、ついでにおまけに添えてくれるようにお願いするのがよろしいかと思います。表紙の裏に昨年1月以降の新刊リストが掲載されています。下記に画像を載せておきますのでご参考にどうぞ。クリックすれば拡大するはずです。
まことに不便なことに、編集工房ノアにはサイトがありません。グーグルすると、いまだに三月書房のページが上位に出てきます。メールも利用されていません。ゆえに通販の申し込みは郵便か固定電話かFAXしかできないでしょう。住所と電話は検索すればすぐにわかるはずです。
FAQ / お問い合わせ窓口
FAQ / お問い合わせ窓口
FAQ / お問い合わせ窓口
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フォーレ協会の研究会での講演
二月初めの記事でご案内した四月十六日の講演会はすでに満席になり、キャンセル待ちださうです。ひとりで吃驚してをります。
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