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ベルリン動物園の歴史
投稿日 2024年11月20日2024年11月20日投稿者 TANAKA Jun
古本屋でベルリン動物園関係の書籍を調べていて、かなりしっかりした本らしいのに、ずいぶん安く売られていたから購入してみたら、函入りの立派な本が届いた。しかも、函には全面、昔の動物園案内図が印刷されている。見返しには1873 … “ベルリン動物園の歴史”の続きを読む
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インタヴュー「「過去に触れる」ために」
投稿日 2024年11月20日投稿者 TANAKA Jun
雑誌『公研』の企画で立命館大学の学生さんによるインタヴューが記事になりました。書誌情報は、田中純・岡本颯「「過去に触れる」ために──戦後80年を前に、いま必要な「歴史的想像力」とは」、『公研』2024年11月号(735号 … “インタヴュー「「過去に触れる」ために」”の続きを読む
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ベルリン動物園の歴史
インタヴュー「「過去に触れる」ために」
2024年11月
太平洋戦争後、愛媛の宇和島に疎開していた著者は伊予料理に接する機会が増える。「要するに、その土地で食うものを食え」(p. 88)という教訓は、風土ごとに異なる食文化と食生活を楽しむ著者の姿勢を物語る。
三中信宏(2024年11月8日公開|2024年11月11日加筆|2024年11月14日修正)
ベンヤミンにおいては、鋭い直感が、不十分な哲学的裏付けを伴って提示されるので、ことさら秘教的なものになっていることが多い。例えば初期の言語哲学。それがフッサールの『論理学研究』に対して批判的であることは当然予想されるとおりだが、だからと言ってまさかのName中心の言語論、それも固有名詞中心の言語論とはいかなることか?もちろん彼が、フレーゲに始まる言語哲学的転回を知らないのは致し方ないとしても、このままでは偽なる有意味な命題の扱いすらままならない。神による命名という神学的テーマにインスピレーションを得ているにしても、このように乏しい道具立てで言語哲学に挑戦しようとするのは、どんな勝算があると思ってのことなのか?
社会学者の研究メモ
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以下は2017年8月26日(土)に、韓国ソウルにある国立ソウル現代美術館で行った基調講演の全文です。
私の名前は室井尚(むろい・ひさし)です。横浜国立大学の教授をしています。専門は哲学や文化理論で、何冊かの本を書いています。今回のツアーもそうですが、普段は学生たちと一緒にアートプロジェクトをプロデュースしたり、沢山のワークショップをしたりしています。
ですが、私はアーティストでもあります。少なくとも一度はアーティストでもありました。
2001年に日本初の国際芸術祭である「ヨコハマトリエンナーレ2001」が開かれましたが、その時に私は、ディレクターの1人であり、京都国立近代美術館の学芸部長だった河本信治さんに声をかけていただき、ほぼ同年代のアーティスト椿昇(つばき・のぼる)さんとのユニットを組んで、「The Insect World」というプロジェクトを行いました。これは複数のユニットからなる複合的なプロジェクトだったのですが、その中の一つとして設置した全長50mのバッタの形をしたバルーン「飛蝗(The Locust)」が余りにも大変で、それにばかり力を奪われていました。
このバルーンはとても遠くからも見ることができ、横浜の町のシンボルでもある船の形をしたインターコンチネンタルホテルに設置されていました。私たちのコンセプトは21世紀にはこれまでの人類の文明とは全く異なる、いわば「昆虫的」な論理が世界を支配するだろうということで、「The Insect World Operating System will govern the World」という言葉をキーコンセプトにしていました。
冷戦が終わり、新しい世界秩序が生まれようとしていました。私はそれを、人類を含む脊椎動物からもっともかけ離れた昆虫の目から見た世界を提示することによって、新しい文明の誕生を喚起しようとしたのですが、実際にはそれは2001年9月11日の同時多発テロ事件によって簡単に乗り越えられることになってしまいました。
クシシュトフ・ヴォディチコ氏と会ったのはこの作品の準備をしていた時です。彼はティファナで行っていたプロジェクションを展示するために横浜トリエンナーレに参加していました。ある機会があって、この時私は彼と二人で、バーで飲む機会がありました。
その前から私はヴォディチコ氏の作品を知っていて、とりわけ京都国立近代美術館の展覧会「Project for Survival」で最後の展示室に出されていた「Polis Car」にはとても大きな衝撃を受けていました。都市に溢れるホームレスを排除したり、収容したりするのではなく、彼らに移動できる最強のツールを与え、むしろ町の中で誰よりも自由に活動できる存在に変えるというアイディアは、常識を完全に覆すものであり、この作品を作ったアーティストに会ってみたいと思っていたのです。
彼にこのバッタのCGを見せると、彼は愉快そうに笑って、こう言いました。「アメリカの深夜映画でシカゴの町を巨大なトノサマバッタが占領するB級SF映画を見たことがある」。
その後、私はこの映画を探しました。それは1957年に作られた白黒のアメリカ映画で、ピーター・グレイブス主演の「The Beginning of the End」という映画でした。とても安っぽいSF映画ですが宇宙からの謎の光線で巨大化したトノサマバッタの群れがシカゴの町の高層ビルを襲うというストーリーでした。
それからちょうど9年後の2010年3月に、私はヴォディチコさんと再会しました。京都国立近代美術館で、ヴォディチコの作品を紹介し続けてきた河本信治さんの定年退職を記念する展覧会のオープニングパーティに彼は参加していました。
多分私のことなんか忘れているだろうと思いましたが、せっかくなので話しかけてみました。
「9年前にあなたが教えてくれた映画のタイトルは”The Beginning of the End”でしたが、あの後すぐに9.11が起こりました。私たちのバッタのバルーンもトラブル続きで71日の展覧会期間中23日しか展示できなかったのですが、その中でワールドトレードセンターのビルが崩壊するのを見て、私たちは底知れない敗北感に捕らわれていました。今から考えるとまさしくあの年は”Beginning of the End”の年だったのです」。
ヴォディチコさんはとても鋭い目で私をじっと見つめていて、私は何か彼を怒らせてしまったのかと思い、「失礼しました」と早々に彼から遠ざかりました。
ところがパーティの終わり頃になって、彼はまっすぐに私のところに歩いてきて「時間があるのなら、コーヒーでも一緒に飲まないか?」と向こうから声をかけてきたのです。
雨の降る中、京都の町を二人で長いこと歩いて喫茶店に入りました。彼はちょうど「9.11」に関する著書”The City of refuge”を出版したばかりで、9.11を記憶するためのメモリアルをニューヨーク湾の海上に作って、そこを世界平和センターにするという構想を提案していたところでした。
「日本では誰も俺のこの提案に耳を傾けてくれないし、あのパーティでも誰もまじめな話をしてくれないのに、お前に会えてラッキーだった」と彼は言い、それから二人でミシェル・フーコーの「パレイジア」概念や、犬儒派(キニク派/Cynic School)の哲学について議論を交わしました。
彼はちょうどパリの凱旋門を「戦争を永遠に廃絶するためのメモリアル」に変えるというプロジェクトに取り掛かっていて、スケッチブックを出してまだ構想中のこの作品「The Abolition of War」のデザイン画を目の前で書いてくれました。
「お前、どう思う?」と聞かれて、「そうですね。でも、これができたからと言って本当に人類が戦争を廃絶するようになるかどうかは疑わしい」と曖昧な返事をした私に彼は少し怒ったようで、「俺はこれをやっているのに、お前は何をするんだ? たとえば、お前は靖国神社のことをどう思っているんだ?」と言いました。
私は即座に「靖国神社はまずい。あれは一種のタブーのようなもので、右翼も左翼も靖国のことになると正気を失う」というようなことを言うと、彼はさらに激高して、「何を言っているんだ。パリの凱旋門だって右翼とナショナリストの魂の象徴で大きなタブーになっている場所なんだぞ」と言います。これは本当のことで、この一年後、パリの画廊で「The Abolition of War」のオープニングにはフランスの有力メディアは左も右も一切取材にきませんでした。彼らは凱旋門をタブーにしていて記事にするのを恐れたのです。
しばらく彼と議論して、私は横浜に帰りました。新幹線で深夜に家に着くと、さっき会ったばっかりのヴォディチコさんからメールが届いていました。
それは「俺は明後日の朝の飛行機でボストンに帰るのだが、明日土曜日は一日オフだ。俺が新幹線で東京に行くから、一緒に靖国神社を見に行かないか?」という突然の申し出だったのです。
次の日、東京駅で待ち合わせて二人で靖国神社に行きました。私は子供の時に観光バスで靖国神社を訪れたことはありましたが、大人になってから行くのは初めてで、ヴォディチコさんの方が詳しい知識を持っていることを恥ずかしく思いました。
靖国神社が、戦後はただの新興宗教団体になっていること、アメリカの占領軍が最初は廃止しようとしたのを結局は残すことにしたこと、A級戦犯を祀って中国や韓国の激しい反発を呼ぶようになったのは1970年代後半からであることなど、それまで全く知らなかったのです。またいくら右翼や自由民主党の一部が靖国神社を国有化しようとしても絶対にできない理由もこの時に学びました。
靖国神社の隣には付属の博物館があって、そこにはゼロ戦や人間魚雷回天など旧日本軍の兵器が展示されていますが、ヴォディチコさんは「誰があんなにきれいな兵器を保管していて提供できたと思う? アメリカ軍以外ありえないではないか? 日本と韓国・北朝鮮と中国が仲が悪くて一番得をしているのはアメリカなのだ。靖国はそのためにある」と言いましたが、まさしく私の目を開かせてくれる言葉でした。
その後、私たちはメールやSkypeで連絡を取り合って一年後に横浜で国際会議を開催しました。「アートと戦争」という会議で30名以上の研究者、アーティスト、キュレーターたちを招いて三日間の議論を続けました。
実はこの時にせっかくヴォディチコさんを呼ぶのだから会議だけではなくて、作品も出したいということで「War Veteran Vehicle」の日本版をやろうと準備をしていました。
ところがその準備期間中の2011年3月11日に東日本大震災と福島の原発事故が起こったのです。私もヴォディチコさんもこの大災害に大きな衝撃を受けました。そこで、二人で相談してこの災害の被災者の声を作品の中に組み込むことにしました。私はスタッフを連れて6月初旬に気仙沼や塩竈などを訪れて、津波の被害者やその関係者の取材を行い、War Veteran Vehicleの形でデータを編集しました。
その成果は横浜で2回、被災地の仙台で1回のプロジェクションとして公開されました。このプロジェクトの名前は二人で相談して「Survival Projection 2011」としました。
時間も不足していたこともあって、この作品に対する評価はあまり高いものではありませんした。震災のショックがまだ生々しかったのか、公開現場では何人もの観客から「こんなことをして不謹慎だと思いませんか?」と非難されました。Wod